約束の明日

ささやかな幸せ













「あほーーーーーっ!!」


 アウルの金切り声がネオ・ロアノークの屋敷周辺の空気をゆるがせた。

 朝の気持ちの良い庭でさえずっていた鳥たちはその声に驚いていっせいに飛び立った。


「ご……ごめんな……さい」

「どこの馬鹿が廊下のじゅうたんに水をばら撒く奴がいるか!! 」


 怒り心頭のアウルの前でステラはバケツを抱えたままうなだれていた。

 アウルの部屋の前の廊下はすっかり水浸しになっていて歩くたびにちゃぽちゃぽと音をたてる。

 フレイはすごい事をするわね、と言葉を亡くして立ち尽くしていた。水浸しの廊下を踏まないよう、距離をとっている。

 アウルはピクピクと引きつるこめかみを押さえ、怒りをこらえながら水浸しとなった廊下に目をやり、そしてステラに向き直った。必死に笑おうとしたが、彼は怒りをこらえるのが精一杯だった。


「だって……じゅうたん、綺麗にしようと思って」
「へぇ、それならそーじきがあんだろーが!!」


 ……なるべく怒りを口調に出すまいとも思ったけれど。口調からしてあまり功をなしていない。

 それでもステラは縮み上がりながら、泣かずにしどろもどろに言い訳をした。すぐベソベソしていた最初のころの比べれば進歩かもしれない、とフレイは遠巻きに感心した。


「うん……でもね、アウルが、何時も暑い、暑い言ってるから……お外の水撒きみたいに……涼しくなるかな……って」


 アウルのため、と聞き、アウルはそれ以上怒る気もうせて大きくため息をついた。

 あれからすっかりここにいついたステラは何かと自分に世話を焼いてくれようとするが、慣れない仕事に空回りばかり。

 仕事は減るどころか増える一方で使用人たちからも苦情さえ出始めていた。

 アウルとしては、彼女がこんな余計なことをせずにニコニコ笑ってお得意の庭弄りでもやってくれていれば良いのだ。家事はまるっきりダメだったが、彼女は生き物を育てるのが上手だった。一時は命を奪う側だったはずなのに、不思議なめぐり合わせだとアウルは思っている。

 彼女は命を育て、花を咲かせていてくれればいいあとは……自分の傍にいてくれさえば。

 前者はともかく、後者は本人の前ではアウルはそうそう素直になれなかった。

「あのさー、それは嬉しいンだけど」
「嬉しい……?ホント……? 」


 アウルの言葉が魔法のようにステラのしょぼくれた表情を笑顔へと変えて行く。

 その変化の早さに「いや、さっきまで怒られていただろーが、つーかまだ説教の真っ最中なんだけど分かってる?」と大いに突っ込みたいアウルだったが、彼女が笑うとそれもどうでもよくなってしまう。

 これ以上説教する気も起きなくて、後始末が大変だよ、と心の中でぼやきながらもアウルが礼を言うと、ご褒美、といわんばかりにステラが腕を広げて彼を待っていた。


 単純お馬鹿。


 そんなステラが愛しくて、アウルは彼女を抱きしめた。
 腕の中の暖かさと背中に回される腕の力強さ。
 幸せってこんなものかもしれないと、アウルは思った。







* * * *






 穏やかな日々が過ぎて行く。

 パタパタと屋敷を駆け抜ける音がする。

 使用人たちは何事かとそれぞれの仕事から顔を上げて音のする方向へと目をやった。

 アウルが自室でクロトとチェス対決をしていると、扉が派手に開いてステラが飛び込んできた。

 ずっと走ってきたのか、少し息を切らせた彼女はなにやら白く、フワフワしたものを腕に抱えていた。

 アウルはちょうど負けていたのでこれは幸いと切り上げてしまうとクロトが不満の声を上げた。あえて聞こえないフリをしてステラの方へと歩み寄り、彼女の腕を覗き込むと、白い物体はニャーと鳴いた。

 ……猫だった。

 それも真っ白な、子猫。

 またか、とアウルは内心つぶやいた。これで何匹目だろうとも。


「アウル、ネコさん」


 きっとまた飼いたいというのだろう。

 懇願の眼差しを向けるステラにアウルは小さく息をつくと、もう何度も言ったであろう言葉を口にする。


「また拾ったのかぁ?ちゃんと世話しろよ」
「うん」


 満面の笑顔で大きくうなずく少女を前に自分も笑みがこぼれる。

 ステラが拾ってくるのは捨て猫だけでh内。中には犬や鳥さえもいた。もらい手を捜さなくては、と思ってもこのご時勢では貰い手はきっといない。

 アウルたちは比較的余裕のある生活を送っているが、それでもいつかはNoin(ダメ)と言わなくてはいけない日も来るだろう。

 でも今は、まだ其の時じゃないから。

 ステラが笑っていられるように、それまでは黙って好きな事をさせてあげたかった。許される範囲で。


「コイツ、真っ白だー 」


 ひょっこりとアウルとステラの間にはいってきた朱色の少年が笑う。

 クロトはアウルと同じく、ネオに拾われ、暗殺者として育てられた。戸籍上はアウルの兄に当たる。

 アウルが来てからは跡継ぎという名目のため、その任務から退けられ、もっぱらアウルの仕事となってしまっているが、それでも現役の実力者だ。彼が今現在いる、士官学校の実技訓練では常にトップで右に並ぶものがいないと言う。

 彼は寄宿先から久方ぶりにロアノーク家へと戻ってきていた。

 ステラはすっかりここになじみ、屋敷内では自由を許されていたが、町に出るときはアウル、もしくはクロトが同伴だった。

 それがフレイとの買い物であっても変わらない。

 ステラをたいそう気に入ったフレイは常々その事について不満をこぼしていたが、ネオは仕方のいないことだよ、と流していた。

 ステラを見つめる彼の眼差しは優しさと慈しみに満ちていた……いつも。

 自分と同じ視線の先にアウルも気づいていたが、彼は聞き出そうとは思わなかった。

 ステラの事は今は感謝さえしていたし、ネオが話そうと思えば話してくれる。

 それでなければ自分は知る必要が無いのだと、思っていたから。








* * * *







ふとアウルは目覚めた。

 まだ深夜だということが彼の体内時計が告げる。

 カーテンの隙間から漏れてくる月明かりが淡い軌道を描いている。

 壁時計の規則的な音。
 そして、自分以外の静かな寝息を感じてアウルは瞬きをした。

 ――自分のものではない、誰かの。

 それも自分の胸元から聞こえてくる。
 視線をずらすと青く輝く金の髪が視界に入った。
 投げ出していたはずの自分の腕はいつのまにかもぐりこんできていた少女の上に畳み込まれていた。


「……またかよ。自分の部屋あるだろーに」


 困惑と喜びの入り混じったつぶやきがもれた。

 ステラにも部屋が用意されているが、夜中に目覚めると決まってステラが自分の腕の中にいる。

 もぐりこむだけではあきたらず、腕の中にまで入り込んでくる少女。

 自分に気づかれること無く忍び寄ってこれる能力にはいつも驚かされるけれど、彼女の前では気を許してううたたねさえをしてしまう事もあって、フレイにはよくからかわれたものだった。


「あんたが他人の前で居眠りするなんてね。昔ならありえなかったのに」

「そういえばそうだ」


 ネオもまた、目を丸くしてそう言う。

 自分はそんなにぎすぎすしていたかと問うと、さすがは血の繋がったもの同志、ネオとフレイは同じタイミングで同じ仕草で大きくうなずいた。


「「そー(だ)よ」」



 ……そうだろうか。

 穏やかになってきているのだろうか、自分は。

 人、らしくなってきているのだろうか。

 人殺しでしかなかった自分が。

 憎悪に満ちていたはずの自分が。

 なんとも滑稽に思えた。


 だけど。


 それも悪く無い、と思う自分もいた。


 ステラの青白い頬に触れるとひやりとした感触がした。

 でも柔らかくて、血の通う頬は確かに生きている人間のそれ。

 死人の頬は硬く、温もりの消え去った冷気を感じるから。


 再度触れた。


 こうも近くに人を感じた事も無いし、触れてみたいとも思った事も無い。

 そんな事する事など今までのアウルにとって無駄な時間に思えて。

 そう、無駄で無用な行為。

 何の意味もなさないはずのものなのに、

 自分は何の意味も無く、ステラに触れている。


「う……」


 するとステラは低くうめいてぼんやりと目を開けた。

 茫洋としたすみれ色にアウルを映すと柔らかく微笑んだ。


「起こした?」


 わりぃ、と囁くと、ステラはううん、と小さく首を振って応える。


「そっか」

 ステラの幼いとも言える仕草に自然と口元がほころんでゆく。

 金の髪に頬を寄せると、ステラは安心したのか再びうとうとと眠りの海へと戻っていった。

 静かな呼吸と穏やかな心音。

 そして規則的な時計の音。

 それらの音に聞き入っているうちに、アウルもやがて眠りの海へと沈んでいった。



 

 戦争の中での一時の幸せ。


 



 世界は今戦争の渦中にいるというのに、アウルの周りは静かな幸せに満ちていた。






――だが、戦争は徐々に彼らのすぐ近くにまで及んでいった。







「空襲だーーー!! 」


すっかり日の落ちたはずの空が赤々と燃えていた。

ネオ達の住む町外れより下方に位置する下町がイギリスの空襲を受け、吹き出た炎が空を焦がすかのように踊る様をアウルたちは屋敷の中から見ていた。

アウルは憎しみの燃えた目にその炎を映し。

 ステラは真っ赤に燃えさかる空に怯えて彼の腕にしがみついていた。

 フレイは青ざめた顔で空から響く轟音から自分を遠ざけようと耳をふさぎ、うずくまる。

 彼女の傍ではこぶしを握り締め、憎しみに顔をゆがめるクロトの姿もあった。

 そしてネオは厳しい顔をその地獄の光景へと向けていた。




 ――1916年。




 戦闘はますます熾烈を極め、飛行機、飛行船、戦車、毒ガス、潜水艦といった新兵器も投入されていった。

 偵察に使われていた飛行機や飛行船は爆撃に使われるようになり、空襲による非戦闘員の犠牲も出てきていた。

 そして6月から長引いていたソンムの戦いでは終盤、イギリスが世界で初めて戦車を先頭に投入し、瞬く間に戦局をひっくり返してしまったのだ。

 ドイツは海上封鎖を受け、頂上から転げ落ちるように敗戦に注ぐ敗戦で徐々に劣勢へとおいやられていった。


「この戦争は短期決戦が目標だったが、やはりそう甘くはなかったか」



 将軍たちとの会合の中でネオは戦況が芳しくないと告げるたが、ほかもほぼ同意見だった。

 同盟国側と連合側では戦力・物資ともに連合側に利があった。

 そのためネオも上層部も早期の段階から揺ぎ無い勝利を収めておきたかったのだが、その拠点となるベルギーの思わぬ抵抗にあい、足踏みをしているうちにこのような戦局を迎えてしまった。


 それだけではない。


敗戦続きの総力戦となり、ドイツの民衆は生活難にあえいだ。

 とりわけ食糧難は耐え難く、そのため暴動やストライキ、やがて大規模な反戦ストさえもが起りはじめていた。

 ドイツは外だけでは無く、内敵も出てきたのだ。

 何とかその戦況を打開したい、そう思っていても同盟国だったイタリアは中立宣言。

 オスマン・トルコも内乱が起きていて戦線離脱も時間の問題だろう。



 ドイツも疲弊しきっていた。



 この絶望的ともいえる状況に作戦現場からは溜息ばかりが出た。
一方、隣国のフランスでは連合側の有利な展開に沸いていた。

 とくに普仏戦争でドイツに私怨のあるこの国ではその雪辱を晴らそうと彼らは躍起になっていた。


「アルザス・ロレーヌを取り戻すぞ!!」
「野蛮なドイツの畜生がざまあみろ!!」


 ちょうどイギリス代表としてフランスとの交渉の場にに来ていたデュランダルはドイツを畜生呼ばわりする彼らのあまりな態度に眉をひそめずにはいられなかった。

 理想の違いからドイツを捨ててもやはり故郷である。良い気持ちのはずが無い。軍人としてもその品位の悪さも許せなかった。


 フランスの将校がさらに大口を開けて笑おうとした時だった。


 窓ガラスを破る音共に、フランス将校の頭がざくろのようにぱっくりと割れた。

 鉄の匂いのする、生暖かい液体がデュランダルの頬を打つ。

 血と脳漿を撒き散らし、頭の上半分失った体は大口を開けたまま、仰向けに倒れこんむ。

 室内の空気は水を打ったように静まり返っていたが、やがて部屋の中は喧騒と怒号に包まれ、狙撃者を探せと、わめく声、ドタバタと駆け回る音でにわかに騒がしくなった。

 デュランダルは頬についた血をぬぐおうともせずに冷え切った眼差しで死んだ将校を一瞥すると、鋭い視線を狙撃方向へと向けた。


 窓には狙撃痕と思われる弾痕が一つ。

 まるで獲物を絡めとるくもの巣のようにヒビが広がっていた――。







* * * *







「ざまあみろ、フランス野郎が」


 ――ターゲットから数百ヤード離れた屋上。

 アウルは憎々しげにそう吐き捨てると構えていたライフルを降ろした。

 鮮やかな彼の海は憎しみにぎらぎらと輝いていた。

 アウルはイギリスも憎かったが、フランスはもっと憎かった。

 フランスは彼にとって敵とも言える国。
 そして……全ての憎しみの根源だった。

 アウルとしては出来ればあの場にいたフランス将校共を残らず始末してやりたかったが、深追いするほど無謀では無い。

 ネオの命令どおりターゲットは始末したのだ。

 彼はかねての打ち合わせどおり、示されたルートで退避ポイントへと離脱した。








* * * *








 自宅に着いたときは既に真夜中近かった。
 後ろでネオの部下が運転する車が遠ざかって行く音を背に
アウルは振り返らず、屋敷へとまっすぐ向かった。
 


 屋敷の窓には明かりは無く、玄関先から洩れる淡い光が道標だった。

 生活の音もとだえ、ひっそりとしている。

 アウルが玄関へと続いている長い道を歩いていると、タイミングを見計らっていたかのように大きく、重い扉が開いた。

 弱い光を受けてほっそりとした人影が浮かび上がる。




 ステラだった。



「アウル、お帰りなさい」


 白いネグリジェ姿を裾まで引きずり、眠たげな表情でアウルに微笑んだ。



 「ネオは?」


 アウルはそんな彼女を一瞥しただけで、すぐに興味を失ったかのように暗い廊下の方へと視線を移す。

 任務の完遂を一刻も早く報告して、さっさと休みたかった。

 あのフランス軍人の下卑た笑みを思い出すたびに腹が煮えくり返るようだ。早く報告を終えて一刻も早く忘れたかった。

 ステラはアウルのそっけなさにしょぼくれた顔を見せたが、あらじかじめ預かっていたネオの言伝を彼に伝えた。


「あのね……ネオ、お仕事で……夕方、出て、行った。今日、戻らない、って」
「人に仕事言いつけといて雲隠れかよ」


 アウルは舌打ちをすると、ステラの横を通り過ぎて屋敷の中へと入っていった。

 すぐうしろで後を追う細かな足音がする。

 また自分の寝床にもぐりこんでくるつもりなのかよと考えながらアウルは自分の部屋へと向かった。

フランスをはじめとする連合への憎しみは募るばかりで、アウルは其のたびに戦場への思いに駆られる。

 こんな暗殺の任務なんかより戦闘の真っ只中に飛び込んで行って一人でも多く奴らを殺してやりたい。

 だがそう言うたびにネオは厳しい顔をして首を横に振るのだ。



 ――何がいけない?


 自分の力は一般兵よりも劣るというのか。

 そう詰め寄った事もがあったが、ネオはアウルには決定的なものが一つ足りないのだという。

 彼らにあって、アウルに無いもの。

 アウルは幾度と無くそれは何かと問うたが、ネオは自分で答えを見つけろとの一点張りで答えようとしない。

 自分の手足を失うのが嫌なのか、と思った事もあったが、自分の代わりはいくらでもいる。

 クロトもそうだし、屋敷にはいないが訓練を受けている候補者もいるのだ。


 訳が分らなかった。


 自分を戦場へと出してくれないネオへの不満と憤り。

 ステラという一時の安らぎを得たとしてもそれは消えない。積もって行くばかりだった。



「ネオのやつ、戻ってきたら文句の一つや二つ、言ってやらねぇと気がすまねぇ」


 熱いシャワーを浴びて部屋に戻るとやはりステラがベットの上で待っていた。

 枕を抱え、足をぶらぶらさせていて、アウルに気づくととことこと寄ってくる。


「おまえさー、ホント危機感ねぇよな」

「?」


 それとも自分を男だと思っていないのか。

 男の寝床に平気でもぐりこんでくるステラにアウルはため息をつく。

 


 出来れば仕事の前後、特に仕事の後は彼女を近づけたくなかった。

 自分から血の匂いがするから。

 洗い流したとしてもその匂いは消えない。



 決して。



 ステラは自分の意思では人を殺せない。殺しを強要されてきた少女に血の匂いを思い出させたくなかった。

 彼女を追い出すうまい言い訳も見つける事ができずにまた一つため息をついた。

 ベットのシーツの間に滑り込むと、ステラも一緒にもぐりこんでくる。

 ひやりとした足が触れた。

 その冷たさにアウルは眉をひそめた。

「お前、どんくらい僕を待ってた? 」
「わかんない。寝ていても、寝れない。だから、起きて、アウル、待った。アウルを待つ、玄関の方が……安心する」

うつらうつらとうたた寝しながら自分を持っていたのだろうか。

そんな姿が容易に想像できてアウルはおかしくなった。

フッ、鼻先で笑う。



「馬鹿。風邪、ひくぞ」


 ステラは応えずに小さくあくびをすると、瞼を閉ざした。

 彼女の寝息は子守唄のように心地良い。

 さっきまでの苛立ちも嘘のように穏やかになっていた。

 アウルは彼女の近くへと身を寄せ、柔らかな唇に口付けると、自身も眠りへと落ちていった。



















つづく
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