強くなりなさい。 一人でも生き抜けるように。 大切なものを守れるように。 強く、なりなさい。 そう言った母の哀しげな微笑みが僕の原点となった。 あたしは待つわ。 彼が帰ってくるあてもないのに何故待つかって? 愚問よ。 あたしがそうしたいからよ。 それにね。 もしかしたら……ってことあるじゃない。 そんな時にあたしがいなかったらどうすんのよ。 だから、待つの。 馬鹿だって笑ってくれたってかまいやしないわ。 そう言った彼女の太陽の笑顔が僕にはまぶしかった。 行っちゃうんだね……。 ステラ、ついていけない……んだね。 でもステラ、泣かないよ。 待ってるから、約束の場所で。 ずっと……ずっと待ってるから。 だから絶対……、絶対帰ってきてね……? ステラ、待ってる。 泣きながらも笑ってくれた彼女は僕に希望をくれた。 ……女って強いよな。 明日がどうなるかも分からないってのに。 約束だってどうなるかも分からないってのに、ああやって笑って。 でもさ。 その約束があるから僕はこうして立っていられのかもしれない。 明日を、信じたくなるのかもね。 戦争の始まり サラエボの町をゆっくりと横切って行く車の列でもひときわ目立つオープンカーに向かって民衆が手を振っている。 今回のサラエボ訪問ではオーストリア=ハンガリーの皇太子、フランツ・フェルディナントはご機嫌だった。 愛して止まない妻、ゾフィー・ショティクは身分の低い貴族の出であったため、ほとんどの公式の儀式には夫と共に列席できなかったのだが、今回の訪問はフェルディナントが陸軍元帥かつ監察長官であり、軍人の資格での行動だったのでは彼女は共に列席できたのである。 何時も虐げられている妻を喜ばそうと、彼自身が企画した軍の閲兵視察だったのだ。 二人を乗せたオープンカーがゆっくりとサラエボ市内を巡る。 フェルディナントの狙い通り、ゾフィーは笑顔を見せ、民衆に向かって手を振っていた。 ――だが、その幸福は2発の銃声によって唐突に断ち切られた。 胸に焼きつく痛みでフェルディナントは自分が撃たれた事を悟った。同時に目の前が真っ赤に染まってゆく。 ……そう、血の色に。 自分はもう助からない。 だが、妻は妻だけは殺さないでくれ。 せめて……せめて妻だけは無事であってくれ。 そう願った彼は、最後の力振り絞り、後ろにいるはずの妻に呼びかけた。 「ゾフィー、子供たちのために生きてくれ……」 それが彼の最期の言葉となったが、彼の愛する妻は二発目の銃弾によって既に命を落としていた―― 植民地支配による利権争いで、列強がお互いに対立するようになった20世紀初頭。 政策の相違からドイツ、イタリア、オーストリアの三国同盟が締結され、それに対抗する形でイギリス、ロシア、フランスの三国協商が締結された この対立の構図の中でオーストリア皇太子夫妻がセルビア人青年に暗殺されるという事件が起こった。 その事件をきっかけにオーストリアは7月28日にセルビアに宣戦を布告、その後ドイツをはじめとするヨーロッパ列強は連鎖反応的に宣戦布告を宣言しあう。 やがてそれは日本やアメリカをも巻き込み、人類史上初めての総力戦―― 第一次世界大戦となるのである。 * * * * 戦争勃発から約二年余りが経過した1916年晩夏。 「全くこの国もみすぼろしくなったものだな」 あたりがすっかり暗くなったとあるドイツの町を歩く三つの影があった。一つは口ひげを生やした身なりに良い小太りの男で影のように付き添う残りの二つは彼の下男達のようであった。 小太りの男は心底軽蔑しった眼差しで町やその住民をねめつけては罵倒し、其のたびに付き添いの男たちも下卑た笑いを浮かべて相槌を打っていた。 彼らも町の人々と同じドイツ国民でありながら、連合側に武器を横流しする、死の商人達だった。 捻じ曲がった選民思想とでも言おうか――同じ国民だというのに彼らは貧しいというだけで――国を、国民を軽蔑し、見下してさえいた。 そんな彼らが今夜あえて車を使わず、徒歩で町を徘徊して回っていたのは、一つの目的があったからだ。 「ほほう・・・」 小太りの男は街灯に浮かび上がる影に気づいて足を止めた。後ろの男たちもまた足を止めて主人と同じ方向を見やった。 町の街灯の下でぼんやりと浮かび上がるかのように佇む華奢な影は10代後半の少女のようだった。 黒いマントに身を包み、何かを待つように静かに佇んでいる少女に小太りの男は口ひげを撫でつけ、目を細めた。 脂ぎった、肉厚の頬の間から覗く目に好色の光が宿る。 大またで少女の元へと歩み寄ると、向こうも彼らに気づいたのか、長い黒髪を揺らして振り向いた。 近くまで来ると少女の容姿がはっきりとわかった。 頭からかぶった黒マントから覗く、長く、つややかな黒髪、整った顔だち。 そしてその瞳は鮮やかな色彩を放ち、闇の中でも海の色である事がわかった。 「なかなかの上玉だ」 期待以上の容姿に隠し切れない笑みが浮かぶ。 厚ぼったい唇を持ち上げ、舐めるように少女の頭のてっぺんからつま先まで物色した。 胸は薄く、少しやせ気味であるが、さほど気にならない。 そう思った男は無遠慮に少女の顔を覗き込むと声をかけた。 「何をしているのかね、お嬢さん。こんな夜道に一人では危ないよ」 声をかけられた少女は身にまとうマントを手繰り寄せると、うつむき、消え入りそうな声で分かってます、とだけ答えた。 その場から動こうとしない少女に男は自分の判断は正しかったのだと確信した。 そう、この少女は花を売る少女なのだ。 自分、という名の花を。 戦争というご時勢で男では戦争にもって行かれ、食うに困った女たちが路頭に立ち、物乞いもしくは身売りするのはそう珍しい事ではなかったのだ。 この少女とて、例外では無い。 「客を、探しているのかな?」 男の言葉に反応し、少女の肩が震えた。 男を見上げた表情は青ざめていたが、否定も無く、少女の無言の肯定に男は愉悦の表情を浮かべた。 「おや、もしかして初めてだとか?」 「ち、ちがいますっ」 とたん少女の顔がさっと朱色に染まり、必死に男の言葉を否定したが、その狼狽振りからして、どうやらこの商売に慣れていない事が明白だった。 穢れの無い無垢さ少女を敢えて汚す――そんな想像が男を興奮させた。 男は下品な笑いを浮かべた。 太い手を伸ばして少女の腕を取ると、少女の身がびくり、と震えた。 「大丈夫さ、わたしは優しいからな」 少女は怯えた表情を向けてきたが、逆らう気はないらしく、男に手を引かれるがまま大人しくついてきた。 彼らのすぐあとを下男たちが続く。 男はこの後の楽しみへの期待に胸を膨らませ、心なしか足取りも速くなってゆく。 懸命にその足についてこようとしている姿から性格も従順そうだと分る。 今夜は楽しい夜になりそうだと男は笑った。 * * * * ホテルの自室に着くと、男は早速下男たちを下がらせた。 上着を脱ぐと、男のぼってりとした腹が現れる。 少女はマントに包まったまま、黙って男が脱いでいく様を見ているだけで脱ぐ様子がない。 男は少女が緊張しているのだろうと思い、服を脱がせてやるつもりでゆっくりと歩みよると少女は無言のままあとじさった。 まるで彼を拒むかのような動作に男は不機嫌そうに眉をひそめる。 「客を取るんではなかったのかね」 「お代を……」 かすれた声が少女の唇から遠慮がちに漏れた。 なるほど、お代を払われないことを警戒しているのだろうと男は悟ると、机に置いた分厚い財布を取り上げて見せた。 「そんなに心配なら前払い、といこうか。さ、言い値を言いたまえ」 その言葉が終わるか終わらないうちに、目の前を漆黒のマントが視界を覆った。 肥満気味の肉体は避ける間もなく、マントにから娶られて身動きが利かなった。 異変に気づき、声を上げようとした男の口をひやり、とした冷たい手がふさいだ。 「お代はあんたの命、でどう?」 そのとき初めて男は少女が笑うのを見た。 端正な顔立ちに浮かんだ表情は可憐でも、無垢でもなく。 「国を売った代償、その身で払えよ」 ――冷たく、残忍な笑み。 殺人者の笑み、だった。 そして。 夜明け近くなっても主人も少女も部屋から出てこない事を不審に思った下男たちが部屋に踏み込んだとき、彼らが目にしたのは。 喉を掻っ切られ、血の海に沈む主人の変わり果てた姿だった――。 * * * * 「やれやれ、ようやく涼しくなってきたね」 町外れに佇む屋敷で一人の男がテラスに出て涼んでいた。闇に包まれた庭のどこからか響いてくる虫の音に混じって、風に揺れる木々のざわめきも聞こえてくる。 男の見た目は30代後半から40代前半と言ったところか。 ゆるいウェーブのかかった金の髪、意思強い蒼い瞳、精悍な顔つき。 顔にはこめかみからあごまではしる大きな傷があった。 大きく深呼吸をして手すりに寄りかかったとき、背後に生まれた気配に男は薄く笑みを浮かべた。 「おや、早かったね」 「まあね」 返答するのもめんどくさげに、投げやりな返事が返ったきた。 テラスから振り返ると、黒いマントに身を包んだ少女がいた。裾がテラスから吹き込んでくる風に揺れている。頭からフードをはずすと、長く、つややかな黒髪が現れた。 男は少女の姿に口元を緩めるといかにも可笑しげにクスクスと笑った。 「似合うじゃないか。どこから見ても可憐な美少女だよ」 「ふざけてろ」 黒髪の少女は苦虫を噛み潰した顔でそうはき捨てると、おもむろに頭へと手をやった。 バサリ、と音を立てて、カツラが外れ、中から水色のくせっ毛が現れた。 続いて黒マントを脱ぎ捨てると、黒シャツと黒い山岳ズボン姿の、しなやかな少年の体が現れた。 そう、顔つきは少女めいていたが、かの黒髪の少女は少女ではなく、少年だったのだ。 「ホーント、笑ってしまうくらい簡単だったぜ。どっこにでも!!スケベの変態はいるもんだな」 どこにでも、と強調して意味ありげな視線を男の方へと投げると、少年は部屋の長いすへと勢いよく身を投げ出した。 男はそんな少年の無礼な態度に気を害した様子はなく、穏やかな眼差しを向けると、「ご苦労さん」と少年をねぎらった。 「早速食事を用意させよう。俺も腹が減った」 「まだ食ってなかったのかよ」 やや驚いた面持ちの少年に男は大げさに肩をすくめて嘆息した。 「なーに言ってるんだい。可愛い息子に仕事させといて自分がのうのうと食事していられるわけないだろう」 「気持ちわる……」 なぁにが可愛い息子だよ、と露骨に嫌な顔をする少年の傍に来ると、男はその頭を軽くたたいた。 繰り返し繰り返し、彼の無事を確かめるように。 これは半ば儀式のようなもの。 まだ10代の少年でしかない彼を薄汚れた任務へと送り出す自分の贖罪。 それは自己満足に過ぎない事は分かっているけれど、男は必ずと言って良いほどそうしていた。 彼の意図がわかっているのか、アウルは撫でられるがままだ。 心底迷惑そうな顔をしているけれど邪険にはしない。 そんなアウルをなおさら愛しいと男は思う。 柔らかく微笑むと叩いていた動作は弧を描くように撫でまわす動作へと変えた。 「冷たい事言うなよ。今日の働きにも感謝してるんだぞ、アウル?」 「へいへい」 アウル、と呼ばれた少年はいつまでたっても離れようとしない手に痺れを切らして振り払うと、身を起こして食堂の方へと歩き出した。 部屋の扉まで来るといったん足を止め、彼はついて来ていない男の方へと振り返った。 「ネオ、メシ、行かねーの? 」 「いやぁ、可愛い息子の姿に惚れ惚れしちゃってねぇ、思わず見とれていたんだ」 特にさっきの格好が可愛くてまた見たいものだ、とおどけた調子で付け足すと、アウルは見る間に顔を真っ赤にして怒鳴った。 「この変態オヤジ!!一人でメシ食え!!」 部屋を揺るがすくらいの勢いで扉が閉まると、扉越しに怒りのまま足を踏み鳴らして歩く音が遠ざかってゆくのが聞こえた。 アウルの父、ネオ・ロアノークは笑みを浮かべたまま、また一つ、嘆息すると、少年のあとを追うように部屋を出て行った。 ぱたん。 軽い音を立てて扉が閉まると、部屋は何事もなかったように静けさを取り戻していた。 つづく index・2 |