笑うあの子が好きだったの。
















Long,but not so Long ago

mother's prayer
















あの子を想う資格がないのは分かっている。
欺瞞だったとののしられたとも仕方ないとも思う。
例えそれが嘘から始まったものだったとしても、私はあの子を愛していた。










「これだから厄介なんだ。母性というものは」



その声を最後に闇が急速に広まっていった。
残されたのはわずかな光、ぼんやりとかすかな光がついたり消えたりしている。
明かりは確かに灯っているのにそれでもなお暗闇しか感じられないのは他でもない。
私の視覚が消えつつあるから。
触覚もそして聴覚も消えつつある。
先ほどまであんなにあった激痛ももはや遠い記憶のかなたで。
もう感じる感覚は何一つ残っていない。
そして指一つ動かす力さえも私にはもはや残されていなかった。

ああ、私は殺されるのか。
ぼんやりとそう思った。
恐怖などなかった。
ただ一つの心残りはあの子だ。
ナチュラルには珍しい水色の髪、寝癖のようにはねていて。
暗闇の中でもはっきり分かるほどの鮮やかなマリンブルー。
あの子はきっとあの場所で私を待ち続けているだろう。
強がりで寂しがりやで甘えん坊のあの子。
一人残されてあの子はこの先どんな風になってゆくのだろうか。


死に行く今となっても、いつのまにかあの子の心配をしていた。
ロドニアに赴任が決まったときはあれほど絶望に打ちひしがれ。恐怖ばかりだったのにおかしなものね。




当時私は結婚に敗れたばかりの大学の研究員だった。
病気が元で子宮を摘出しなけならず、
子供を望んでいた夫は子供出来ない体となった私に離婚をもとめた。

このままでも結婚生活を送る事も叶わないと知った私は離婚に応じ、大学を辞めて、ブルーコスモス傘下の研究室に入った。
自分の居場所を見つけるために。

そんな時だ。
ロドニアのラボの話が舞い込んできたのは。

ロドニアのラボはコーディネーターに対抗しうる兵士を作り出すための実験施設。
そこへ赴任する事は半ば死にに行くものだった。
ミスをすれば処分。
情報漏れもあれば処分。
実験体に殺される危険性もあって、実際殺された研究員も何人もいたと聞いた。
けれど私には選択の余地は無く、実験体同様放り込まれたのがこのロドニアだった。



情けは無用。



情を持ってしまえばつらいのは私たち。
そして実験が失敗すればわたしたちも無事では済まない。
情けは無用、なのだ。
そう、思ってきた。


あの子。
アウル・ニーダもその実験体の一人に過ぎなかった。
泣いている彼を見つけたとき、私はチャンスだと思った。
データから私は彼をよく知っていた。
優秀な兵器となりうる子。
方向さえ示してやれば、彼はきっと他の実験体たちを凌駕しうる存在となる確信が私にはあった。


人間で生き残るためにもっとも必要なもの。
それは力や知恵もある。

だが。

一番大きな要素は精神力。
精神の強さで身体的能力などはいくらでも伸びてゆく。
その精神で一番大きな欲望は生への執着心。
それも生半可なものであってはならない。
他を食い殺してでも生き残ろうとする精神力が必要なのだ。
そうするにはただきっかけを与えてやればいい。
簡単な事だった。


「生きなさい」


私は偽りの微笑を浮かべてその子を。
アウルを抱きしめてやる事でそのきっかけを与えた。
あとは実験の合間を縫ってわたしたちが出会った場所で話を聞いてやれさすれば事は済んだ。
アウルは従順な子だった。

顔色さえ変えずに他の競争相手を殺しては殺し。
情けをかける事などせず、誰もが目を見張るような鮮やかな血の舞を見せてくれた。
実験の間も彼は私の言いつけを忠実に守り、決して私と目をあわせようとしなかった。
そしてひっそりと二人で会う時はアウルは歳相応な幼い顔を見せてくれた。


「お母さん・・・・て呼んでいい・・・・?」


そういわれたとき、私はうろたえ、何もいえなかった。


「お母さんって呼んで・・・・いい?」


拒絶される不安をマリンブルーの輝きに浮かべ、遠慮がちに繰り返される言葉。

何故私は迷っているのだろう。

いつものように笑って。
いいわよ、といってやれば事が済むというのに、何故私はためらうのだろうか。
うわべだけでも笑ってやればいい。
そう思ってきたのに。


「・・・・いいわよ」
「・・・・!」


長い沈黙の後。
ようやく返せた私の返事にアウルの顔が輝く。
満面の笑みを浮かべて私に擦り寄るこの子を見て、私の胸はこのときシクシクと痛んだ。
まるでそこから血を流しているように。




ああ、あの時はとうに彼を愛していたのだと思う。
偽りの愛しか与えられないと思っていた私にとって「母」という言葉はすぎたものだと感じ取っていたから。
その資格などないと分かっていたからあんなにも胸が痛んだのだろう。



今の私ならそれが分かる。









冷たい声がくらい廊下に響く。


「あんた、アウルをどうしたいんだよ。アウルの事をなんとも思っちゃいないのならこれ以上あいつに関わるのをやめてくれ」


私ともう一人の研究員を取り囲むように少年たちはいた。アウルの名を出した萌黄の少年のすぐ後ろに冷たい殺気を南国の海に宿した緋色の少年。

前者は最近アウルがチームメイトになったと言う少年。
兄貴気取りしてうるさいんだとアウルはぼやいていたけれど、その表情には嬉しさが見え隠れしていたのを私は覚えている。
後者は、アウルが最初の友人だと自慢げに話していた少年だった。

どちらもアウルに対して親愛の情を持っているのだろう。
だが二人には私に対してはそんなものなどかけらも持ち合わせていなかった。


むしろ冷たい、殺意だった。


「ひ・・・・」


私の傍にいた研究員の一人が短い恐怖の声を上げてあとじさった。先ほどまで下卑た笑みを浮かべてアウルを侮辱していたのに、今の彼の顔は恐怖にゆがんでいた。無様なほどに。

そんな彼がきびすを返して逃げようとした矢先、白い手が後ろから伸びて彼の口元をふさいだ。
苦痛に満ちたくぐもった声を上げ、何度か痙攣したあと。
同僚である研究員は前のめりに倒れていった。


鼻についたのは強烈なさびた鉄の匂い。
大きく目を見開き絶命した男の背中にはぶかぶかと刺さった大降りのナイフ。その傷口から鮮血が溢れ出、床と私のつま先をぬらした。


「・・・・・」


暗闇からゆらりと現れたのは衣服を血で染めた薄緑の少年だった。
髪の奥から覗く紫の瞳はじっとわたしを見据え、視線から外そうとしない。

言いがたい恐怖が私を駆け巡ったが、私は声を発するどころか動くこともできなかった。
今思えばそれが正解だったのだろう。
もしあの時声を発したり、動いたりしていたら私はきっとその研究員と同じ運命をたどっていた。

冷たい殺意に満ちた3対の視線が私に注がれる。
逃げ場は無かった。



そんな事の発端はわたしとその研究員の会話。
私はアウルに対する懐柔とその成果を彼に話し、その有効性を強調していた。
それを萌黄と緋色の少年に聞かれてしまったのだった。



「もう関わるのはやめてくれ」


凄惨な遺体を前にしても萌黄の少年は何事もなかったように最初の言葉を繰り返した。


「でないと俺はあんたを殺す」
「その必要ないよ。僕が今こいつを殺す」


すさまじい殺気をもはや隠そうともせず、緋色の少年がそう宣言すると同時に撃鉄を起こす音が響き、暗い銃口がぴたりと私の頭へと向けられた。


「この下衆女!アウルのヤツがどんだけあんたを・・・・・っ」


少年達は純粋にアウルの事を思い、私に怒りを向けていたのだ。
互いの命をかけ、血で血を洗う実験体たちの間で連帯感が生まれる事もあるのか。
私は恐怖より驚きと。
そして静かな感銘を受けた。


仕方ない。
私が悪いのだ。
不用意に言葉を漏らした私が。


そう思ったときまたもや私の胸が痛んだ。
この胸の痛みは、私が悔いているのは自分のうかつさではなくもっと別な事だと言うのだろうか。

馬鹿なことを。

私はその考えを振り払うと覚悟を決め、緋色の少年が向けた銃口を見つめた。
少年の指がゆっくりと引き金に触れる。
ゆっくりゆっくりと、狙いを外すまいと。
頭を狙うのは確実性か、もしくは苦しませないための配慮だろうか。
殺されるというのに私はなおも冷静に少年の心を分析しようとしていた。
私は死ぬ間際であってもこういう女なのだろうか。
妙におかしいと思い。
そしてなぜか。

とても、哀しかった。


「やめろよぉっ!!」


突如響いた、悲鳴にも似た声に引き金を引こうとした緋色の少年が驚きに後ろを振り返った。
萌黄の少年もそして薄緑の少年も。
息を切らして飛び込んできたのはアウルと。
金の髪の少女だった。
少女はアウルの後ろにぴたりと寄り添い、茫洋としたすみれ色を私に向けていた。


ああ、なんて言うことだろう。


私はこのとき信じてもいなかった神をのろった。
この子の前で。
この子に憎しみを向けられて殺されるくらいならさっきの研究員と共に殺されていた方がはるかによかった。
この子に、アウルに断罪されるのは私にとって耐えがたい苦痛に感じたのだ。
冷静だったはずの心が振るえ、全身の汗が滲み出す。
お願い、これ以上アウルが口を開く前に。
私を見る前に殺してほしい。
そう、願った。


「だってこの女はなっお前を利用しようとしただけだぜ!?自分の」


研究のために、という緋色の少年の叫びにアウルの双眸がわずかに揺らいだ。
暗闇でもその色が分かるほど鮮やかで、深いマリンブルー。
血と硝煙、薬品のにおいしかしないこの世界に似つかわしくないほど綺麗で。
アウルは私を見つめたままこちらへとゆっくりとあしを進めてくる。
少女はアウルを引きとめようとしていたのだろうか。
アウルが一歩私のほうへと踏み出すたびに、少女に握られたアウルの衣服の皺が深くなる。

それでもまた一歩踏み出す。

「あうる・・・・」

少女の幼い、つぶやきが小さな唇からもれる。
けれどその声にかまわず、アウルは私の元へと来ると顔を揚げて私を見上げた。
震える体を押さえつけ、私も彼の双眸を自分のに移す。
だが。
驚いたことに。
信じられなかったことに。
その双眸のどこにも傷ついた色も憎しみも無く、ただ穏やかな光だけが瞬いていた。


「知ってる」


憎しみも責める響きも無く。
穏やかで優しい響きさえを持ったその言葉に私は信じられない思いで彼を見下ろしていた。
アウルは私と銃口の間に身体を割り込ませると、やめろよ、と再度緋色の少年に言った。

私のしてきたことを知りながら彼は私をかばう。
なぜ。


「どうして」
「それでも好きなんだ、お母さんのこと」


ごめんな、とアウルは自分を心配してくれたであろう少年たちに謝罪の言葉を向けた。
そして寄り添っていた少女にも、また。


「勝手にしろぉ、ぶわーか!!」


泣きだしそうな目をして緋色の少年は銃をおろし。
年長の2人の少年たちは私に哀れみの視線を向けきびすを返した。


「行くぞ。オルガもそろそろごまかせねーだろうから」


緋色の少年は涙をためながら、意地でも泣くまいと唇をかみ締め。
振り返りながら。
萌黄の少年はそんな彼をなだめすかしながら先を促し。
薄緑色の少年はこちらを見ようともしなかった。

闇の中へと少年達の姿が順番に溶け込んでゆく。

残されたのは私と。
アウルと彼に寄り添う少女。
私が言葉無くその後姿を見送っていると、アウルは私に気遣わしげな視線を向けてきた。
彼は私のことを考慮してくれたのか。
手の届かない距離を保ち、それ以上近づいてこなかった。


「ケガ、ない・・・・?」
「・・・・大丈夫よ」
「また、会える・・・・?」


何か言いつくろわなければ。
何でも良い。
そうは思ってもそれ以上言葉は出てこなくて。
アウルの視線にさえ耐えられず、顔をそらした。
其の時の私からはアウルの顔は分からなかった。

・・・・どんな顔をしていたのだろうか。

彼は小さく、待ってる、からとつぶやくと。
傍らの少女を促し、きびすを返した。
二つの気配が遠ざかってゆく。
そして気配がかんぜんに途絶えると、私は糸が切れた人形のようにその場に座り込んだ。
死んだ同僚の乾き始めた血の匂いが薬品の匂いと混じり、脳をさすような刺激臭となって私の鼻につく。
その不快極まりない闇の中で私はただそこにいた。



何かが手元に落ちて手の甲を濡らした様な気がした。








「待ってる」




その言葉は何日も何日も私を縛り続けた。
行くわけにはいかない。
行ったらまたあの危険にさらされる可能性もある。
そして何よりも私はアウルが、怖かった



「もうすぐ研究体たちの総仕上げに入る。いよいよコーディネーター共に目にものを見せてやる時が来たんだ」


あの日からどれくらいの月日がたったのだろうか。
私はぼんやりと研究員達の喜びに沸く声を聞いていた。


あの子供たちは戦場にやられるのだ。
大人達の手によって。
そして死に行くのだ。
それは決められたこと、そして覆しが利かない事。


・・・・どうして、そんなことに。


あの子達だって笑い、泣き、愛しむというのに。
なぜ死にに行かなければならないのか。
あの子達は、何のために生まれてきたのだろう。
何の、ために。


この空気にこれ以上耐えられず、私は祝杯だと騒ぐ同僚達の間を抜けて部屋の外へと向かった。
体と意識が重くよどんでいる。
途中何人かの同僚が声をかけてきたが、私にはまともに答える気力も無く。
ただ休む、と一言告げると、逃げるようにその場をあとにした。


淡い非常灯で寺ひだされたガラスの壁に囲まれた無機質な廊下。
ガラスの向こうに見えるはホルマリン漬けたち。
かつては笑い、泣き、怒ってたかもしれない子供たち。
戦争が終わっても残った子達行く末は決まっている。
そしてこの研究はこれからも続くのだろう。
ここは終わりのない闇の迷宮なのだ。




そう思ってもこんな私になにが出来るというのだろうか。




「お母さん?」


ふと闇の中で響いた声に私は顔を上げた。
非常灯で淡く照らされた廊下の中で見えた、鮮やかなマリンブルー。


「アウル・・・・」


ああどうしたことだろう。
私はいつの間にか、アウルとの約束の場所へと来ていたのだ。
私にはあの子にあわせる顔も会う資格もない。
アウルに責められるくらいなら、憎まれくらいならあの時殺されていた方がよかった。
会ってしまえばそんなアウルの感情にさらされてしまう。
それだけは避けたくて、約束を破り続けたというのに。


「お母さん」


暖かい手が私の手に触れた。
やせて骨ばっていたけれど暖かい、手。


「アウル」


子供の名を呼ぶと、彼は心のそこから嬉しいというように満面の笑みを向けてきた。


「やっと、来てくれた。会いたかったよ、お母さん」


その言葉に胸が震えた。
彼を利用し続けた自分。
約束を破り続けた私をアウルは攻めるようなことはせず、ただ純粋に嬉しいと。
会いたかったと、言ってくれたのだ。


おそるおそる震える腕を広げると、待っていたかのようにアウルが飛び込んでた。
試験体特有の薬品の匂い。
けれどそれ以上に暖かい体と柔らかい頬が私に触れた。


「ごめんなさいごめんなさい」


他の言葉をどうかけたらいいか分からずただあやまる事しか出来なかった。冷たくて暖かいものが頬を伝う。


「泣かないで。せっかく会いに来てくれたのに」

アウルの指が私の目尻の涙をぬぐってくれたことでそれが涙だということにようやく気づいた。


またもや視界が曇る。


とどめようが無く、あとからあとから。
もう泣くことなどないと思った。
愛することもないと思った。

恐怖と絶望を忘れるために、ただ研究に生きて死ぬしかないと。

けれど。

アウルは。
恐怖と絶望を押し込めてここに来た私に心の拠り所をくれたのだ。
光を。

ああ、私は・・・・。
私は。
光をくれたこの子のために何か出来まいか。


こんな私に出来ることはなんだろう?










カタカタカタ。

パソコンのキーを叩く音が人気のない部屋に響く。
昼間などは人の話し声や複数のパソコンのキー音が聞こえてきていた部屋。誰もが寝静まったこの時間、時刻を刻む時計の音とこのキーボードの音だけが響く。
私は研究所のデータを纏め上げていた。
研究内容から所在地など。
この研究に対するあらゆるデータを。

一つのデータの容量が大きすぎてもいけない。
いくつかのデータを分断し、ファイルを作り上げていた。
そして送信方法や送る方法もまた数百にもわたる手段を確保した。

この大半はおそらく見つけられて処分され、とどくことはないだろう。
だが、その中のいくつかはここではない、ブルーコスモス傘下ではないどこかに届くことを信じて私はデータを作り続けていた。
データログを考慮して作業時間もあまり長くてはいけない。
そして連続してはいけない。
これは骨の折れる作業だった。

だけど。

私を突き動かしていたのはアウルや子供たちに何かをしてやりたいという気持ち。
このデータがどこかに届けば、この研究が明るみに出てくれれば。必ず誰かが動いて助かる子供たちだってきっといる。
例えアウル達の救出に間に合わなくても。
そう思ったから。

寝る時間も休憩時間も削り、私は作業を続けた。
その間も時間は刻々と過ぎ、最初の成功体達の実戦配備が決まったのだ。


オルガ・サブナック。
シャニ・アンドラス。
そしてクロト・ブエル。


オルガという子は直接会ったことはなかったけれど、ほかの二人はすぐにわかった。
あの時、私に殺意を向けてきた子達。
彼らの配備が決まった時、アウルは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
それを緋色の少年、クロトは。


「なに泣いてンだよ、ぶわぁーか!!お前らの出番なんかないって言ってんの」
「泣くか!いなくなってせいせいするよ!お前がいない間僕はもっと強くなってすぐに追いつくから!そしたらぼこぼこにしてやっから覚悟しとけ!!」
「はっ、100年はえーよ!!」


そんなやり取りしている間も残りもひたすら別れを惜しんでいた。
残り少ない日を心に強く焼き付けようと。



ただ見ている事しかできない私はなんと無力なのだろう。



そうおもいながらも今日も私は作業に没頭した。
制限時間は短く、日数も足りない。
気持ちはあせるばかりで。
あと一人、あと一人作業を手伝ってくれるものがいたら。
そんな望みなど叶えられるはずもないと知りながらも私は願わずにはいられなかった。


「あんた、よく来てるよね。なにやってんの」


不意に響いた声に私は顔を上げ、入り口付近の壁に背中を預けている緋色の少年の姿に思わず立ち上がった。
がたん、という音をたて、いすが倒れる。
静まり返った部屋にその音はやけに大きく聞こえ、誰かが気づきやしないかと椅子のほうを顧み、また扉の方に視線を戻した。

幸い誰も来る気配は泣く、扉はしまったまま。

安堵のため息を漏らすと、少年の存在を思い出して全身の血が引いていく。


見られた。


ここまで来て、と私は唇をかみ締めて少年を、クロトを見つめた。
密告されれば終わりだ。
造ったデータたちはどこにも行くことは無く、私は処分される。
今更自分のみはどうでもよかったけれど、このデータだけはどうしても外へと送りたかった。
それが自分の贖罪。
これで自分がしてきた事を償いきれるものではないと思っていたけれど、これがこの終わりのない迷宮を終わらせることが出来たら。


「・・・・お願い、見なかったことにして」


冷たい視線を向けてくる少年に精一杯の懇願を向けてみる。
アウルと仲のよかった子供だ。
私のことをよく思っていないのはその目に宿る冷たい輝きで分かっていた。
けれど説得するしかない。
例え信じてもらえなくても、作業を終わらせてくれるのならば喜んで死んで見せようと思った。

緋色の少年は私を無視すると、横を通り過ぎてデータの画面へと目をやった。しばらく凝視していたかと思うと、私のほうを振り返る。
そして其の時初めて彼は憎悪以外の感情を宿した目で私を見た。
さんご礁の海を思わせるアウルのマリンブルーとは異なる、熱帯の南国を思わせる濃い青。その瞳には困惑の色が見えていた。



そういえばこの子の目を見つめたのは今日が初めてだったことに気づく。



切れ長で小さめな目。
でも利発な光を宿した青、の輝き。


「何のためにこんなことしてんの。下手すればあんた、殺されるよ」
「それでも何かをしたいの。無駄なあがきだと分かっていても」


少年には私のしようとしていた事が分かったようだった。
困惑の色が薄れ、静かな光が生まれる。


「・・・・でもやんないよかましって?」
「そうね」
「ふーん」


少年はかるく鼻を鳴らすと、他のパソコンの起動にかかった。
なにを?
彼の意図が理解できず、ぼんやりとしていた私に彼は手伝うよ、と言って笑った。
初めて見る、少年の。



クロトの無邪気な笑顔だった。




「日数少ないけど何とかなる」


そう言ってデータを処理するクロトの仕事ぶりはまさに神業だった。
私の数倍は早く、しかも適格だった。


「すごいのね」


純粋な驚きと尊敬をこめてそういうと、クロトは得意げな表情になる。


「訓練ではトップだったもんねぇ」


こうして二人で共同の作業をして日は飛ぶように過ぎていった。
クロトたちが旅立つ日はもう目前だった。
それでもクロトのおかげで私の計画の実行のめどを立てることが出来たのだ。


「アウルに内緒にしておいてくれよなぁ」
「なぜ?」


休憩の御菓子をほおばりながらアウルを出してきたクロトに私は首をかしげた。作業の事は秘密にしておくことは当然だけれど、彼の言葉には続きがあったから。


「あんたと一緒にいることがばれたら、アイツ、手が付けられなくなるほどへそ曲げる」
「大げさね」


クロトの表現がおかしくて笑うと、彼は真面目腐った顔で大きく首を振った。


「スティングのことでもぶーたれんだぜ。自分のだと言わんばかりにさぁ」


お菓子の残りを飲み込んでいったん言葉を切ると、今度は辟易とした表情を浮かべる。

アウルも表情豊かだけれど、この子もそうね。

仲良くしていると中身まで似てくるもなのかしらと、こっそり思ってみた。口にしたら、きっと怒るだろうから。


「とくにステラのこととなると、もう独占欲の塊。シャニにケンカまで売るし。惚れたからってああまで束縛すっかぁ?」

ステラ、とはアウルに寄りそっていた金の髪の少女のことだ。
アウルもその子を好いているらしく、当たり前のように話しに出てくる。本人は認めたがらないけれど、アウルは彼女に恋していることがよく分かってほほえましかった。


「自分のものにしたがるのよ。自分を見てもらいたくなるの。好きになるとということはそういうことじゃないかしら」
「そういうもん?」
「そうよ」


そう。
私もかつて恋をし、相手に自分を見てもらうために奮闘し、結婚もした。結局成就しなかったけれど、今は後悔していない。
幸福な時も確かにあったのだから。


「クロトにも分かる時が来るわ」
「・・・・・・」


クロトは黙りこくると、遠い眼差しで天井を見やっていた。


クロトもいつか恋をする。
そしてアウルのように好きな子の気をひこうと躍起になるだろう。
そんな気がした。


「外に出れば、きっと」




手元の湯飲みの湯気が、揺れた。










データを纏め上げ、送ることに成功した時は偶然にもクロト達の旅立ちの日。
アウルたち3人と研究員たちに見送られ、彼は旅立った。
別れの挨拶はもう既に済ませてあったのだろう。
彼らの間では特に何の会話も無く、淡々としたものだった。

最後に一度だけ、クロトと視線があった。

すぐにきびすを返したからほんの一瞬だったけれど、彼が別れを告げてくれたような気がした。


「アウル」
「絶対帰ってくる。そして僕がアイツをぼこぼこにするんだ。ついでにシャニもなぁ」
「シャニ、だめ」
「うっせー、馬鹿!!」


強がってそうつぶやいたアウルの顔が忘れられない。
子供ばかりだと思っていたあの子が男、の顔をしていた。






データの送付は約数百通り。
電子機器を通すだけではなく、ビンに入れて流すといった原始的な方法やカプセル状にしたりなどして在りとあらゆる手段を尽くした。
そしてその行く先にはザフトも含まれていた。
そう、地球国家だけではない。
ザフトにも私は送った。
彼らとて鬼ではないだろう。
きっと子供たちを救い出してくれるであろうことを願ったのだ。







たくさんの記憶が走馬灯のように脳裏をよぎる。


むせ返るほどの血の匂い。
喉元を焼き付ける熱は収まることを知らず、あとからあとからあふれ出てまともに息が出来ないくらいだった。



体の中から命がこぼれ出て行くのが分かった。
ああ私は死ぬのだ。



『オーブの協力者のおかげでデータの流出先が分かった』


主任の言葉と共に、研究員の集まる中で向けられた銃口は瞬く間に私の身を砕いた。
飛び散る肉片と血。
自分に開いた穴を見つめながら私はゆっくりと床に倒れた。


『まさか君だとはね。ぬかったよ。期待していたのに残念だ』


口の中からあふれ出た血が唇と床をぬらす。
そしてからだからも溢れた血が血だまりを作り、私の身を浸してゆく。
もう感覚がほとんど残っていない私を男はけりつけると、はき捨てるようにこう言った。



「これだから厄介なんだ。母性というものは」




周囲でざわめく空気。
残りのデータを探し出せというわめき声。
ばたばたと通り過ぎていく気配。
死に行くなか、私は笑った。

データはまだどこかで生きている。
そう確信できたから。
きっとどこかへたどり着いて終わらせてくれるだろう、この終わりのない迷宮を。


アウル。私の坊や。
クロト。私の友人。
そしてあのこの家族とも言える子供たち。


私にあなた達を想う資格がないことは分かっている。
でも最期まであなた達を想わせて。


願うのあなたたちの未来。
どんな形でもいい、この世に生まれてきたことを嘆くことのないように。
最期に見る光景が憎しみと悲しみに満ちたもので終わらないように。



それが私の願い。



少年たちが笑っているとアウルも笑っている。
笑うあの子が好きだったから。





本当に本当に愛していたから。




















あとがき





アウルの「母さん」編。サブタイトルは母の祈り。
本編では語られる事の無かったアウルと「母さん」。
最初は偽りであってもきっと・・・・・。そんな風に思って書きました。本編沿いの小説だけでは無く、もう一つの可能性。After〜の拍手、お盆にもリンクしています。