ねえ。



ねえ、なぜ私を置いていったの?

どうして私を忘れているの?

私,今一人なのよ。

あなたの迎えをずっと待っていたのに。




・・・・許さない。

私、あなたを絶対に許さない。

許さないから。

絶対に。









 幼い姿をした『私』はそう言うと唇の端をつと持ち上げて、冷たく,残忍な笑みを浮かべた。
 -------------あなた、誰?



「また・・・・あの夢・・・」


 眠りから目覚めたレイはいまだ重い意識をもたげてぼんやりと先程の夢のことを考えた。


 ---------頭が重い。
 夢の内容ははっきりとは思い出せない。
 憶えているのはとても冷たく,そして漆黒の闇。
 心の底から凍てつくす戦慄。恐怖。
これは何?



 内容はよく思い出せなかった。
 だが、レイはとても嫌な夢だったのははっきりと覚えていて、重苦しい息を吐き出した。からだも冷たい汗ばんでいる。白いカーテンの揺らぐ窓を見やるとまだ夜明け前らしく、辺りは暗かった。


 レイは夢を見る。


 それはシンジ達に出会うまで気づくことのなかったもの。
 時には暖かく,時にはさみしいもの。
 それは生きている、という証。
 だが、さっきの夢はシンジたちと出会う前の夢とも今までの夢とも異なり、底知れぬ暗さ,冷たさを感じた。


 この頃のレイはこの夢を毎晩のように見るようなっていた。


 夢の内容は思い出せないのに、それは心臓を鷲づかみにする恐怖を残し、レイが目覚めると必ずと言って良いほど体は寝汗をかいている。しかも心の奥底に静かに忍び寄るこの闇は、日を追うごとに次第にその濃さを増していった。


 これは何?なんの夢?この夢は私に何を伝えたいの?


 レイはその言葉を反芻させているうちに心細くなり、無性に月が恋しくなった。

 月。

 レイ、そしてカヲルの故郷。
 本来ならば地上に浮かぶ月はカヲルの故郷であって彼女のものではない。彼女の月はジオフロントそのものなのだから。
 それでも彼女はその月と共に育った。
 綾波レイが綾波レイである限り、地上に浮かぶ月、そしてこの地上こそが彼女の故郷なのだ。
だが、いつもは心を落ち着かせてくれるはずの月を見ても心細くて仕方なかった。

 まるで自分の一部分に去られたような、そんな心持。
 カヲルがいて、シンジがいて、アスカがいて、大切な人たちがいる。
 それでも心のどこかで何かがかけている心持はあったのだけれど彼らがいたからこそ忘れていたのだろう。
 それが今になってそのかけた部分が自分に何かを訴えかけはじめている。




それは警鐘だった。



















Recollection of onself,

the Beginning of the End















 ネルフでは一つの噂がたち始めていた。


「子供の幽霊?」


 セントラルドグマへと続く、果てしなく、長い廊下を先立って歩いていた青葉が振り返る。


「うん。セントラル・ドグマに出るって・・・・」


 彼のすぐ後ろについてきていたマヤがうなずいた。一端の科学者であるマヤは非科学的なものを信じないはずだったが、その噂におびえているのか顔色が悪い。
 ネルフの敷地は膨大で所々に何もない空間が多数存在し、どこまでも続く灰色の壁や廊下は音も無くひっそりしていて廃墟を思わせ、その噂を信憑性の高いものにしている。
 今、彼らが歩いている廊下も無人だった。


「やだな・・・・」


 マヤはそうつぶやくと、青葉とはぐれないようにと、懸命に彼のあとに続く。彼らは作業のため先に目的地にいるであろうと思われる同僚達の元へ向かっている途中であった。その作業とは破壊されつくしたセントラル・ドグマの補修・改修工事の支援だった。
 今でも十分な広さであるネルフであるにも拘らず、そういった場所の修復に努めているのはそこに残された資料やいまだ解明されていない、ジオフロントに残る遺跡の解析のためだった。
 ネルフは最終戦闘のあと、新たなる人類発展のための遺跡調査・解明の研究調査期間としての再出発となり、対使徒国防機関からかつて研究所として立ち上がったゲヒルンとしての役目に戻りつつあった。
 マヤとしてはこれ以上ジオフロントの遺跡を荒らしてどうするという気持ちが強かった。人が触れてはいけない領域だと。だが、同時に科学者として知りたいという気持ちもないわけではなかった。
 ジレンマだ、とマヤはネルフに残留を決めた時にそう思ったものだ。
 でも離れるにはネルフは思いいれの在りすぎる場所で、自分の居場所だった。潔癖症で人を拒絶していた自分を受け入れてくれた場所。
 
 
 受け入れてくれる人のいる場所。


 先立った歩く青葉の後姿を見つめながらマヤも彼に続いた。

 やがて通路は整備されたものから徐々に荒れ果てたものへと変わってゆく。崩れ落ちた天井。黒焦げの壁。ぽっかりと開いた、穴。
 それは戦略自衛隊との戦闘の爪あと。


「マヤ、気をつけろよ」
「う、うん」


 今でもこうして歩いている自分が不思議とさえ、マヤは思う。第一発令所でマヤ達が目覚めた時はいつもどおりの仕事風景で戦略自衛隊もまだ突入状態のまま、夢見心地で空を見やっていた。
 アレだけの殺し合いは夢だったのかと錯覚してしまうほど、誰もかもがいつもの場所にいた。ただ、建物だけが戦闘のあとを残していて、それが逆に非現実的にさえ思えた。

 そのあとの事はマヤたちは知らない。
 ネルフは解体されるされないかもめていてゲンドウやリツコ、ミサトたちがネルフ存続のため奔走して回っていた事しか知らない。それで良いとリツコは言っていたのだからマヤはそれで自分を納得させていた。自分には自分なりに自分しか出来る事があら。それを頑張ろうと、今こうしてネルフにいるのだ。

 ふと、横の通路に人の気配を感じて立ち止まった。

 目を凝らすとその通路の奥に漆黒の闇からぼんやりと人影が確かに浮かび上がっている。
 その姿はマヤの腰元しかない背丈で、幼い子供のように見えた。顔ははっきりしなかったが、その少女は微動だにせず、マヤを見つめている。

 何故こんなところに子供が?
 しかもこんなに瓦礫が転がっている危険な場所で。
 落とし穴だってあるのだ。
 マヤは通路に張ってあるロープをまたぎ、子供の元へと駆け寄ろうとしたその時。


「マヤ!!」

 青葉の声で我に返った。
 同時にガクン、と体が前のめりに倒れそうになった彼女を力強い腕が引き上げる。


「なにやってんだ!!ここは立ち入り禁止だろ?ロープが見えなかったのかっ?!」
「あ・・・・」


 青葉の声で我に返ったマヤは自分の足元を見やって、ぞっと血も凍る恐怖が全身を駆け巡るのを感じた。
 先ほどまであったはずの足元の足場がいつの間にか途切れていて、下では底なしの闇がパックりと口を開けていたのだ。
 そして先ほどの子供がいた場所も、また。


「なんで・・・・?」


 子供は確かにいたのだ。
 顔はよく見えなかったが、確かにいて、彼女を見つめていた。
 でも足場のないところにどうして立っていられたというのだろう?


『死ねばよかったのに』


 混乱するマヤの耳元に幼い声が響いた。
 それは心底残念そうで、嘲笑と共にマヤの鼓膜を震わせた。
 青葉に抱きかえられながら、マヤは声を上げた。
 それは恐怖に駆られた、衣を切り裂くような悲鳴だった。













「だからその真相を確かめに?」
「そっ。4人で行こうと思ったけど、レイってばこの頃調子悪そうでしょ?カヲルはレイにつきっきりだし」
「うん・・・・」


 その数日後、アスカとシンジは同じセントラルドグマにいた。
 好奇心一杯に真相解明に出よう、と言い出したのはアスカでシンジは半ば強制的に連行された形だった。
 アスカはレイとカヲルにも当然声をかけようとしたが、彼らの様子に誘うのをやめたらしかった。
 この頃レイの顔色は悪く、ただでさえ少ない口調はさらに少なくなっていて。人当たりがよく、口数の多いカヲルでさえ、険しい顔をしていた。
 とても誘える雰囲気ではなかったのだ。
 

「まるで迷路ねー」
「うん・・・・」
「やっぱナビ役にレイを連れて来れば良かったなー」


 地図を頼りに角をいくつか曲がった時だった。
 シンジは自分の歩いている廊下と合流するもう一つの廊下に幼い子供の姿を認めた。


「子供?」


何故こんなところに?
 彼が声をあげると同時に少女はぱっときびすを返して通路の奥へと消える。


「待って!」
「ちょっと,シンジ!?」


 彼女の後を追って駆け出すシンジをアスカは慌てて後を追った。
 二人は子供の後を追い、いくつもの角を曲がる。

 おかしい、とシンジは感じた。
 中学生の足と幼児の足。
 それも自分達はかなりのスピードで走っているにも拘らず、どういうわけか少女に追いつく事が出来ない。
 だが自分達が彼女を見失う事がないようにと向こうは距離を測っているように距離はそんなに離れる事は無い。
 幼い少女はその速度を緩めたり早めたりしながら、二人を誘い込むように巨大なネルフ施設の奥へ奥へと入っていった。

 そして。


「!?」
「シンジ!」


 通路の角を曲がったところでシンジは床にばら撒かれた無数のビー玉に足を取られ、つまずいた。
 手をついた瞬間、チッという痛みと共に首に朱の線が走る。


「っ!」
「な、なによ、これ!」


 見ると廊下に無数のピアノ線が蜘蛛の巣のようにピンとはりめぐされていた。ちぎれる直前まで張られたそのピアノ線の危険性は鋭利な刃物と同じだ。


下手をしたら首が・・・・。


 シンジとアスカの間に戦慄が走った。


「・・・残念。やっぱり首ころり、っていうわけにはいかないのね。つまらない」


 ポツリと残念そうな声がすると、いつのまにか幼い少女が二人の前に立っていた。顔に薄い笑みを浮かべ,心底残念そうにため息をつく。蒼みのかかった銀髪、髪に血のように紅い瞳。どこか覚えのある風貌にシンジが目を見張っていると、アスカが


「フザケンじゃないわよ、クソガキ!」


烈火のごとく激昂した。だがそんな彼女を意に介した様子もなく、この子供は顎に指をあててシンジの方をちらりと見やる。途端、アスカの背筋に冷たいものが走った。

  少女が片手を挙げたのとアスカが飛んだのは、ほぼ同時だった。

 金色の光が走り,シンジがいたはずの空間の壁が斜めに大きく裂ける。間一髪、アスカのおかげで難を逃れたシンジは身の凍る思いで壁の裂け目を見た。アスカがかばってくれなかったら今ごろ自分は確実に真っ二つだった。


「あら失敗。で、次どうするの?・・・・二人一緒に死にたい?」


 失敗とつぶやく割には少女の声には楽しそうな響きが逢った。シンジをかばった姿勢のまま、折り重なる二人をからかうように見下ろす幼女の姿は逃げ場を失ったネズミをいたぶるネコそのものだった。


「あなた達がいなくなったらどんな顔するかな。泣くかしら。怒るかしら」


 誰ともなくそうつぶやくと、少女はくすくすと笑う。
 楽しそうに、嬉しそうに。
 まるで親をびっくりさせようとイタズラを計画している無邪気な笑顔。
 彼女の言葉はその表情とは裏腹に殺意に満ちたものだった。


「ねぇ、どう死にたい?一人ずつ?それとも二人一緒?」
「どっちもお断りよ!!」


 気丈にぴしゃりとアスカは撥ね付けたが、幼女は表情を変えない。ここでようやく我に返ったシンジが掠れた口調で少女に問いかけた。
 それは問いかけというより、独白に近い、言葉。


「君・・・・誰?会った事あるような気がする・・・・」


 まるで自分自身の記憶を確かめるような、つぶやき。
 そして直後、ある事に思い当たり、はじけるように顔を上げると、食い入るように少女を見つめた。
 アスカが痛い、とかをしかめるほど彼女の手を握り、恐怖を押しのけ。気力を総動員して少女に呼びかけた。


「綾、波・・・・?」


 途端、幼いレイの表情がゆがむのをみてシンジは確信した。
 この子は、綾波レイ、だと。
 数ヶ月前のエヴァ起動実験の記憶がシンジの鮮明に浮かび上がる。
シンジとレイの間で行われた相互実験で彼は零号機の中で一つのイメージと遭遇した。
 それは幼いレイのイメージだった。
 だが彼が何時も目にして、話しかけているレイではなく、もう一人の彼女。だが全くの別人でもない。綾波レイそのものだった。


「綾波、だろ?初号機と零号機の相互起動実験のとき見た零号機の中のイメージは君だよね」


 幼い少女の沈黙はシンジの言葉を肯定しているかのようだった。

 レイの希薄だった自我。
 それは育ち、とだけで片付けてしまえるようなものだとシンジには思えなかったから。
 

 レイはエヴァにいると本来の自分に戻るような気がする、と言っていた事。
 時を経てもなお、のこる自我の希薄さ。
 まだ使徒として自覚していなかったレイが。
 母のいないレイがエヴァとシンクロで来た理由。
 この少女の存在が最後のパズルのピースなのだ。
 

 


「ちょっと,シンジ。どういうことよ?」


 話をつかめず、とまどいを露にしたアスカが小声で問うてくる。
 シンジはこの事を話すべきか迷ったが、同じパイロットとして、そして
エヴァに取り込まれた彼女の母を思い出し、やはり話しておいた方が良いと判断し、口を開いた。


「アスカのお母さんと同じだよ。エヴァに残された綾波の精神の一部なんだよ、あの子は」
「え・・・」


 シンジの言葉にアスカは息を呑んだ。
 精神の一部をエヴァに取りこまれていた、アスカの母。
 本体から引き離された,精神の一部。
 あの子供はそれと同じ存在だというのか。


「あの子も・・・・エヴァの犠牲者」


 苦い想いが胸に去来し、アスカは複雑な面差しで幼い少女を見やった。唇を噛み締め,黙ってうつむいている幼い少女にシンジは優しく声をかけた。


「ここに出る幽霊って君だろ?一人ぼっちで寂しくて、誰かに気づいてもらいたかったんだよね?」


 だが少女から返ってきたてきたのは冷笑だった。


「誰のせいだと思っているの?」


 シンジの言葉に少女は顔をあげ、冷たくせせ笑った。


「え?」


 先ほどの無邪気な笑顔は消えうせ、代わって少女の顔に表れたのは激しい憎悪だった。豹変した少女の態度にシンジは訳がわからず,戸惑う。


「誰のせいだと思う?」


 そんなシンジを幼いレイはすさまじい憎悪の炎を湛えた紅い瞳でにらみつける。


「おまえのせいよ!!おまえのせいで、私は零号機ごとこの世から消えるところだったのよ!!」
「あ・・・」


 第16使徒、アルミサエル戦の事を思いだし,シンジは言葉を失った。あの時,レイはシンジをかばい,使徒を道づれに自爆したのだった。
 言葉を失ったシンジの代わりにアスカが叫んだ。


「そんなの、逆恨みじゃない!!」
「うるさいっっ!!」


レイは憎しみをもはや隠そうとせずに叫んだ。


「あなたに何がわかるの?自分自身から引き裂かれて,エヴァという冷たい棺に押し込められた恐怖!!挙句の果てには、あの灼熱になぶられた苦しみ!忘れられた寂しさ!!あれからずっと迎えに来てくれるのをまってたのに・・・・・・・ずっと、待っていたのに・・・・っ」







憎い。
 
      
私が捨てられた元凶の
お前(シンジ)が憎い。               

                
私を、私たちを利用するだけ利用した
あの男(碇ゲンドウ)が憎い。
 
          
エヴァに私を閉じ込めた
あの女(赤木リツコ)が憎い。

        
そして。


そして誰よりも。他の何よりも。

            
私を捨て、私を忘れている,

わたし(綾波レイ)が誰よりも!!憎い!!






 アルミサエル戦後,3人目となったレイは零号機はロストのまま、彼女は再びエヴァに搭乗することはなかった。
 エヴァに残されていた彼女の精神の一部-----性質的におそらくリリスに近い存在なのだろう------はエヴァから自由になった後、レイの幼い頃の姿を取り,姿をあらわしたのだった。


「何も知ろうともしなかったくせに!!何も知らないくせに!!護られるだけだったお前が知ったような口ぶりしないで!!!!」


 一息で感情を吐き出すと,幼女の姿をしたレイの精神体は平静さを取り戻し、無邪気に,そして嬉しそうに二人にこう宣告した。


「あなた達がどう思うにしろ,どっちみち私が思うとおりにしかならないの」


 小さな手のひらに金色の光-----A.T.フィールドが収束して行く。


「選ばないなら一人ずつ殺してあげる。まずは・・・・。そうね、セカンド、あなたからよ」


A.T.フィールドはやがて一振りの剣へを形取った。


「逃げたら?・・・・できるのならね」


 ショックを受けたまま動けずにいるシンジを無理やりひっぱりあげると、アスカは彼を連れて走り出した。


「百数えたらおいかけるからねーーーっ」


 少女の楽しげな笑い声がこだまし、そのまま数を数え始める。


「い〜ち。にぃ〜い。さぁ・・・・・ん」


 命がけの鬼ごっこが今、幕を開けた。












あとがき
狂気に満ちた鬼ごっこ。シンジとアスカは逃げ切れるでしょうか・・・・。