昔のアイツにはとって全部が全部、どうでも良い事だったのよ。
 目に映る景色、通り過ぎてゆく人間、そして自分さえも。
 ただ自分で死ぬのは怖いから生きているだけ、そんな感じ。
 あたしはアイツが好きでそんなあいつを見ていられなかった。


 でもあたしにはアイツを変える力も、幸せに出来るだけの力もなかった。


 隣で歩いても、話かけても、肌を触れ合っても、そのどれも、何もあいつに届く事はなかった。
 でも、それでもあたしはそんなアイツをどうにかしたくて。
 何でもいい、アイツにとってどうしても譲れない物を作ってもらいたくて。
 だからあたしは・・・・アイツとあの子を引き合わせたの。




 全部を否定するアイツと全部を受け入れるあの子を。































  愛おしい君に
       
     笑顔を
























 
「よくお似合いですよ」

 ふわりとした、薄いベールをかぶせられ、白いドレスに身を包んだステラが大きな姿見に映りこんでいる。
 ウェディング・プランナーの笑顔と反対ににステラの表情はまるで生気が無く、ただされるがままの人形のままだった。

 ステラはこの日、シンやレイ、ルナマリア、そしてマユと共にドレスの試着に来ていた。ルナマリアは半ば強引についてきた形だったが、それでも同行を許されたのはこの間の遊園地の件で彼女がすっかりレイの信用を得たからだった。三人は無事帰ってきた上、ステラにも笑顔が戻ってきた事が、レイは表情を崩す事はなかったが、喜んだようだった。


『ルナマリア、礼を言う。・・・・ありがとう』


 ルナマリアは思いもよらなかった彼の感謝に驚くと同時に後ろめたさを覚え、曖昧に笑う事しか出来なかった。
 この遊園地の計画は元々ステラをアウルにあわせるためのもので。いずれステラを奪い返すための計画の布石に過ぎなく、レイの気持ちを裏切る事に変わりはなかったからだ。


「ルナ・・・・アウル、いつ来てくれるの・・・・?」


 ルナマリアと二人、試着室に残されるなり純白のドレス姿のステラはルナマリアを顧みて問うた。ルナマリアのワンピースの裾をつかみ、不安と希望のいりまじった顔で見上げてくる。

 嫁入りの日は近いのにあの日以来、アウルと連絡を取り合う術は無く、彼の約束はいつ果たされるのかという彼女の不安が募るのは当然だろう。
 彼に逢わせて欲しいと目で訴えてくる。


「ごめんね・・・・でもきっと大丈夫。ね?」


 だが今のルナマリアには出来る事は彼女を励ますことだけだった。
 レイの信用を得る事は出来たのだが、前のようにアウルと連絡を取る事さえ今はままならない。なぜなら・・・・。


「ステラ、入るよ?良いかな」


 扉をノックする音がしたあと、シンがドアから顔を覗かせた。そして姿見の前に佇むステラの純白の姿をまぶしそうに見やると


「よく似あってる。お姫様みたいだ」


 そう言って誇らしげに微笑んだ。




 おかしい。




 遊園地から帰ってからどうも彼はおかしいとルナマリアは感じていた。シンはあの日以来、何かとルナマリアにステラの事を持ち出してきては彼女をステラの傍におきたがる。
 まるで見張られているようだった。
 そう思いはしたものの、ステラが情緒不安定にっている事は確かでほうっておくとも出来ず、アウルとはほとんど連絡取れないまま、ただ無駄に時間だけが過てゆくばかりだった。


「ルナさん、おはなししましょ」


 そこへ明るい声と共に腕を引っ張られ、振り向くとマユが満面の笑顔で自分を見上げていて後ろでレイも微笑んでいた。


「しばらく二人にしてくれないかな?」


 ルナマリアは正直、こんな時にシンとステラを二人きりにしたくなかった。
 だが、マユとレイは異存など許さないとでも言うように彼女を引きずり出してゆく。彼女が抵抗しながらしまり行くドアの隙間からさいごに見たのは向かい合うシンとステラだった。

























「ステラ、どうしたの?」


 シンはステラを心配するように彼女に手を伸ばして金の髪に触れた。
 否、触れようとしたのだが、ステラがわずかに身を引いたのでその手は彼女に触れること無く、空をきる。それでもシンは不自然とも見える、穏やかな笑みを浮かべて彼女を見つめた。

 今までと違うシンの様子にステラは違和感を覚えた。

 目の前で微笑んでいるステラの知る、幼馴染で兄のようなシンではなかった。
 まるで他人のような、そんな感覚。
 初めて会った人。
 そう、知らない男の人。
 ステラの声にわずかな恐れが混じる。


「シン・・・・あの、ね・・・・」
「やっぱり大人っぽすぎるかな、そのドレス。もっと可愛いのがいい、ステラ?」

 シンはそんなステラに気づく素振りを見せず、何気ない会話を続ける。
 ステラの様子に気づいているけれど彼は敢えて知らないフリを押しとおしているかのようだった。
 ステラは怖かった。怖くて仕方なかった。
 それでもシンに言わなければならない事があると気を奮い立たせる。
 
 自分のこの二年間の事。
 恋人、アウルの事。
 そして恋人についてゆくつもりである事を。

 自分を今まで見守ってきてくれたシンに全て打ち明け無ければならないと彼女は懸命に話を切り出そうとするけれど、シンはのらりくらりと会話を交わすばかりで耳を傾けてくれない。
 いつもはどんな長い話でも、分かりづらい話でも聞いてきてくれたというのに。


「ステラ、このドレスは」
「シン、ステラ、好きな人、いる」


 シンの言葉を遮り、ステラは彼とまっすぐに向き合った。
 彼を逃すまいと、話を聞いてもらいたいと袖をつかんで。


「ステラ、その人について行きたい。だからシンと・・・・」
「聞きたくない!!」


 だが、ステラの言葉はシンの怒声交じりの声に断ち切られた。
 今までシンにこんな強い語調で、それも話を遮られた事の無かったステラは彼の厳しい態度に驚き、目を見開いた。
 自分からそらした彼の顔は、眉間には皺を寄っていて、激しい感情を懸命に抑えている表情だった。


「絶対、幸せにするから。もう置いていかないから。だから・・・・」


 震える声がかぶさる。ふわりと抱き寄せられた。


-----傍にいて。

 
 抱きしめられながら耳元でささやかれ言葉にステラはもうそれ以上、なにも言うことが出来なかった。

























 どれくらい外で待っていたかは分からない。
 


 ルナマリアは落ち着かない気持ちでレイたちと共に待合室にいた。
 時間が過ぎていけばいくほど胸に募るのは不安とあせり。
 なにも出来ない、もどかしさ。
 何度目か分からないため息をつきながら彼女は閉ざされた扉とレイたちを交互に見ていた。何とか抜け出せまいか、とタイミングを計りながら。


「お兄ちゃん、まだ出てこないね。結構話し込んでるんじゃないかなー」


 クスクス忍び笑いを漏らすマユにルナアリアは曖昧な笑みで答える。話などほとんど上の空であったけれど、マユは気づいていないようだった。


「そうだ、ちょっとイタズラしちゃえ」


 そう言ってマユはピンクの携帯を取り出すと、パチパチと操作をはじめた。何をしているのかとルナマリアが怪訝な顔で彼女を見ていると、携帯をしばらくいじっていた彼女が訝しげな声を上げた。


「あれ、おにいちゃんにメールが届かない。おにいちゃん、アドレス代えたのかな?」
「アドレス?」
「ん」


 不思議に思ってマユの携帯を覗き込んだルナマリアはそのアドレスを見たとたん、顔をこわばらせた。マユはきつい表情で画面を凝視するルナマリアを不思議そうに見やると一つため息をついて、携帯を閉じた。


「あーあ、良い雰囲気のところを邪魔てしてやろうとおもったのに。アドレス代えたのなら早くいってよ」


 かわいらしく頬を膨らませたマユの文句はルナマリアの耳元を通り過ぎてゆくだけで。彼女は黙ったまま、険しい光を湛えた目でしばらくドアの方を睨みつけたあと、おもむろに立ち上がった。


 どうしても聞きだしたい事が出来た。
 そして何が何でも聞き出すつもりだった。
 それくらい彼女ははらわたが煮えくり返るほど怒っていた。
 半分は理不尽とも自分で思っていたが半分は・・・・。
 其の時タイミングを計ったかのように扉が開いてシンがでてきた。

「おにーちゃん」
「マユ」


 駆け寄るマユにむけられたシンの表情は穏やかだった。
 穏やか過ぎる、と思うほどに。

 兄妹の仲の良い会話をレイはわずかに羨みの表情を浮かべてみている。あのめったに表情を変えない彼がそんな顔するのはきっと彼はステラとこのように仲良く会話をした事ないせいなのだろう。
 ステラの家は厳しいとは知ってはいたけれど、今のルナマリアにはそんなレイに同情を覚える余裕など無かった。
 つかつかとシンのほうへと歩み寄ると、仲の良い兄妹の間にわって入り、


「アスカ君」


 と自分自身も気味悪く思えるほど優しげな声で彼の腕をつかんだ。
 相手の事を気遣う気もなく、憤りのまま彼の腕をつかむ手に痛みを感じたシンが抗議の眼差しを向けてきたが、それを無視してルナマリアは淡々と用件だけを述べる。


「話があるのよ、ちょっと顔を貸してもらえる」
「なに?」


 今までの愛想の良いとはほどまでとは打って変わった強硬なルナマリアの態度にシンはわずかに緊張した表情を浮かべた。
 割り込まれたマユがぽかんと二人を交互に見やっていて。
 レイもまた同様で何事かと訝しげな表情を向けてきていたけれどルナマリアはそんな二人にかまわず、シンをその場から引きずり出した。
 ステラをよろしく、と一言だけ残して。


「さーて」


 人気の無いラウンジまで来ると、シンの手を離してにっこりと笑った。
 だがその表情とは逆にルナマリアの心に渦巻くのはどす黒い怒り。


 そう、シンに馬鹿にされた、という気持ちでいっぱいだった。


「・・・・5月3日。ファンタジーランド」


 絶対零度の冷気を含んだルナマリアの声色にシンがぎくりと表情をこわばらせた。ルナマリアは彼の反応に片眉を上げるとゆっくりと近づき、襟元に手を伸ばした。
 つつ・・・・と細い指先を胸元からゆっくりと首元にはしらせて行き。
 喉元まで指先が来たとき指が止まった。


「なめた真似、してくれたわね」
「・・・・っ」


 
 シンが動くより早く、手に力をこめて襟元を捻じあげた。強力な力で締め上げられた首元に、シンが苦痛に声を漏らした。
 彼は振りほどこうともがいたが、ルナマリアの腕はピクリとも動かない。
 それどころか動くたびに彼の首はさらに締め上げられてゆく。


「あたしたちはあんたの手の上で踊らされたってわけ?やさしーおにーさま?」


 嘲笑を含んだ声に揺れたシンの紅い目に。ルナマリアの嗜虐心が沸き起こった。息がかかるくらい顔を近づけ、じりじりと攻めるように言葉を紡ぐ。


「何のつもりだったの?わざわざ情報を流してくれちゃって。最後の別れにでもさせるつもりだった?」


 ゆっくりと見開かれる紅玉。
 それは図星を差されて狼狽か。
 ルナマリアの静かな剣幕に対する恐れか。


「違う!!」


 だが、震える唇から飛び出したのは血の吐くような叫び。
 否定の言葉だった。
 息が詰まりそうになっているはずのシンから怒鳴り返され、ルナマリアが驚いた拍子に腕を振りほどいてシンは後ろへと飛びのいた。


「初めは・・・・何とかしてやりたいと思った」


 うつむいてシンは声を震わせた。


「ステラが笑ってくれるならそれで良いって・・・・」



 どんな形であれ、俺は君が幸せであればそれで良いんだ。
 君があいつの傍を望むのなら君の背中を押してあげる。
 笑って君を見送るよ。
 大好きな、君だから。
 誰よりも君の幸せを願っているのだから。
 君が笑顔でいてくれるのなら、俺はそれだけで幸せな気持ちになる。



 そう、思っていた。



 「でも」


 いざ本当にステラと彼女の恋人とのやり取りを目にしてみると。
 どうしようもない哀しさ、嫉妬、そしてやるせなさに押しつぶされそうになった。


「どうしてアイツなんだ?俺のほうがずっとずっと長く一緒にいたのに」


 熱い熱の塊がシンの目頭から頬を伝うのをルナマリアは黙って見つめていた。


『シン・・・・行っちゃうの?』
『2年とちょっとの留学だよ。手紙も書くし、電話もする。長い休暇に帰れたら帰るし。ステラ、待っていてくれるよな?』


 2年前の旅立ちの日。
 スカートの裾を握り締め、大きなすみれ色の瞳に涙をにじませてそう言ったステラ。
 俺はそんなステラがいじらしくてはなれたくなかったけれど、父の言いつけだからしょうがないって割り切ってしまっていた。
 少しでも立派な跡継ぎになって父さんを安心させて・・・・・ステラを幸せに出来る男になって帰って来ようって。
 今思えば・・・・いかなければよかったって・・・・後悔さえしている。



「たった2年でなくなっちまうのかよっ?!」


 血を吐くような叫びをルナマリアはただじっと聞く。無表情に。無表情の仮面の下に複雑な感情を押し込めて。なぜならシンのその感情は彼女自身も知っている感情だから。


「俺は本当に彼女が好きだから・・・・・だから誰にも譲りたくない」


 そう、たとえ・・・・・。
 たとえ彼女が笑わなくなってしまったとしても。
 何年かけてでもまた笑わせてやれば、と。


「そう、思った・・・・」
「・・・・ガキねぇ」


 シンの告白にルナマリアはしらけた表情でため息をはいて見せた。
 彼にしては真剣な気持ちを馬鹿にされた気がして、腹を立てたのだろう。
 紅の瞳に敵意が篭る。
 彼女はそれを真っ向から受け止め、彼に対峙する。


「つまり、惜しくなったってわけ。二人を会わせた事、後悔してるんでしょ」
「・・・・・あんたに何が分かるんだ。人を散々おちょくっておいて、えらそうに」


 非難の篭った言葉にああ、やっぱばれてたか、とルナマリアは内心舌を出した。このお坊ちゃまは思っていたほど馬鹿ではなかったのだと。
 くっ、と喉鳴らして口元をゆがめた。
 シンの言葉などなんて事がないと言うように肩をすくめ、軽薄な調子で笑う。


「しょうがないじゃない、あんたはお邪魔虫。まぁあたしもそうだし、お互い様ってことで」
「どういう理屈だよ、それ!」


 人を食ったルナマリアの態度にシンは頬を怒りで高潮させて詰め寄る。


「あんたの後悔する気持ち、全く分からないってわけでもないよ」


 たった今までのふざけた態度から一転して真剣味を帯びたルナマリア言葉に紅をパチパチさせた。
 驚きと困惑のいりまじった目を向ける彼に目もくれずにルナマリアは遠くを見やると、自嘲気味に呟きを漏らした。


「あたしも一度通った道だし」
「・・・・あんた・・・・・」


 自分の言葉の意味を汲んだのか、シンが呆けたかおで彼女を見つめる。それはすぐに人の古傷に触れてしまったゆえの後悔の一歩手前の表情に取って代わられる。だがその表情はルナマリアにとって滑稽なコメディ以外なんでもなかった。
 確かに時折痛みを覚える古傷ではあったけれど、それは既に過去のもので。そしてそれ以上に彼女が得たものはそれとは代えがたいものだったから。


「まぁそれはおいといて。あんたさ、あの子達の話、聞きたい?」


 先ほどの軽薄さに満ちた笑顔と打って変わってくだけた顔でルナマリアは笑う。言葉にも先ほどと違って真剣さを篭めた。


 
 こんなにもステラを真剣に想う彼にも知ってもらいたいと。 
 そして知る権利もあるだろうと思って。
 そして聞いてもらいたいと思ったから。




 自分の大切な宝物の事を。




 そこでふと疲労感を覚えた。
 言葉少なげに言ったつもりだったのに真剣さをこめたとたん、生じた疲労感。普段は軽く振舞っているだけにたまに真剣になるといのは肩がこる。
 使い分けは難しいものね、心の中でつぶやくと黙ってシンの返事を待った。
 
 激高したかと思うとふざけたり、真剣になったりするルナマリアの態度に腹を決めかねているのか。
 それでも彼女を通してステラとアウルの2年間を知る事が出来るかもしれないと期待したのだろうか。

 シンはゆっくりとだが、しっかりとうなずくのをみてルナマリアは微笑んだ。そして記憶をさかのぼらせて語り始める。
 長い、それでいて短かった2年間を。



「あんたは・・・・挫折って言うものを経験したことある?」
「挫折?」
「自分の今までの世界が全部ひっくり返ってしまったこと」
「・・・・ステラ」
「ん〜、ちっと違うのよね。もうにっちもさっちも行かなくなって頑張れなくなった、ってことがあるかってことよ」


 彼女の言葉に懸命に思考をめぐらせるシンにふっと笑うともし、頑張れなくなった人間を前にしたらどうすると質問をはさむ。シンは何を、と怪訝な表情を見せたがすぐにがんばれ、と励ますと答えた。


「まだなんとなるって・・・・まだ頑張れるって」


 宙を睨みながら言葉を選んでそう答えたシンに駄目ね、とルナマリアが苦笑すると、他の答えを見つけられなかった彼は困りきった表情になった。
 そんな彼を見てルナマリアは同じだ、と感じた。

 そう、大半の人間はそういう。
 自分のときもそうだったのだから。
 自分の家族は家や学校のプレッシャーのつぶされた挙句、荒れた娘を前にただ呆然とし、頑張れと繰り返すばかりだったのだから。 
 自分の事は語る必要はないから必要以上には語らない。
 脳裏にちらついた残像を追い払い、なおも続ける。
 疼く痛みを押し隠して気づかれないようにと注意を払いながら。


「頑張れなくなった人間に頑張れ、って言う言葉ほどきついものは無いの。だってもう余力ゼロの人間なのよ?」
「・・・・」

 聞きながら彼なりに考えているのだろう。
 静かな思案の色を浮かべる紅の瞳。
 だけど彼が答えに至るにはまだ知識も経験もない。


「その言葉は逆にね・・・・・追い詰めてしまうの」


 シンが息を呑む気配がした。
 そう、奮い立たせる励ましは時には残酷な刃となって引き裂く場合もあるのだとかれはきづいたのだろう。
 

「あたしとアウルはそうだったの。頑張れなくなった、人間同士」


 静かな沈黙が漂った。


「だから同じもの同士、抜け出せるかと思った。・・・・出来なかったけれど」


 何も見ない、何も聞かないアウル。
自分には何の価値もないのだと、馬鹿みたいに勝手に一人で閉じこもってしまって。
 自分が彼を必要だと求めても彼はただ笑うだけ。
 隣で歩いても、話かけても、肌で触れ合っても、そのどれも、何も届く事はなかった。
 好きだった。
 そんな彼を見ていたくなかった。
 でも抜け道が見つからなかったのは自分も同じで、どうしようもなったふたつの一歩通行。


「あたしも知らずしらずにアイツに頑張れって頑張ってって。そんなんでどうするのって・・・。あたしが一番憎んでいた言葉をアイツにむけていた」


 治りきっていない傷がまた疼いた。
 先ほどのよりさらに強い痛みを訴え始める。
 ふとさすような真摯な眼差しに気づいて顔を上げるとシンと目があって、彼は頬を赤くして顔をそらした。
 哀れみの眼差しではなかった。
 同情でもなかった。
 ただ真剣にきいてくれている。
 それが嬉しくてルナマリアは少しだけ最初の調子を取り戻す。


「でもね、ステラは違ったの。あのこはあたしが欲しかった言葉をくれた」



『頑張ったね。えらいね』



 笑って、頭をなでて、抱きしめてくれた。



『よくここまで頑張って来れたね』


 ステラは今までの自分を受け止めて、肯定してくれたのだ。 
 強がる自分、弱い自分も醜い自分も。
 ここまで生きてきた事を純粋に喜んで賞賛を贈ってくれて、溺れる手をつかんで引っ張り上げてくれた。


「あの子もずっとガンバってきたから頑張る事のつらさを知ってたのね。何も言わないけれど」


 ステラの闘病の事を思い出したのだろう、シンの顔がはっとした表情になった。
 素直で無邪気で何時も笑っていて。
 子供のようだとばかりだと思っていた少女にも葛藤があったのだろうと気づいたようだった。
 そう、つらくなかったはずは無いのだ。


「あの子だけだった。だからあたしはアイツに引き合わせたの。全てを否定するアイツと全てを受け入れるあの子を」

























 6畳間の薄暗い部屋にジャワーの音が響いている。
 外はまた雨が振り出していて、灰色空が窓から覗いている。

シャワーの音が途切れた。

 しばらくするとジーンズだけを身に付けたアウルがタオルで頭を拭きながら脱衣所から出てきた。
洗面所の鏡の傍に置かれた銀のペンダントに気づくと手を伸ばして
それを取り上げる。
 ゆらゆらと揺れるペンダントをしばらく見つめていると、次第に表情がゆがんでゆく。
 かみ締められる、薄い唇。
 畳の上に無造作にほうられた携帯電話の元へ歩み寄って画面を覗き込んでも着信もメールもない。


「ステラ・・・・」


 アウルは想い人の名をつぶやくと雨の降る灰色の町へと目をやった。
 いつかだったか、こんな雨の日だった。


 成り行きで付き合ってたのに次第に大きくなってくる彼女の存在が重荷になってきていて、デートを一方的にすっぽかしてここでぼんやりとしていた。
 曇り空は次第にその濃さを増して雨が降り出しきて。
 もうこんなんじゃ帰ってしまっているだろうな、と罪悪感の中に安堵を覚えながらただじっと雨を見つめ続けてた。
 そう、待っているわけ無い。
 映画やドラマの世界でもないのだ。
 これをきっかけにすっぱりと縁が切れたら、と思っていて何度か入ってきた電話の着信も無視してじっとしていた。

 それでも電話は着信を告げ続ける。

 一向に止まらないその着信にいいかげんめんどくさくなって電池を取り外して床に放り投げた。
 当然電話は沈黙し、静寂が訪れる。
 雨音を聞いているうちにアウルはそのままうとうと眠り込んだ。
 眠りと覚醒の間を漂っていると昔の夢を見て。
 捨ててきた懐かしい思い出がつらい記憶と交じり合って自分を通り過ぎてゆく、そんな夢。


 自分は叔父達にとって重荷以外なんでもないのになぜ生まれてきたのか。
 何故ここにいるのか。
 今まで生きて来た意味に何の意味があるのか。望まれて生まれてこなかった、自分に。

 アウルは自分の出生を知ってからは何とか気に入られようと周囲の顔色をうかがってすごした。

 叔父達は何も言わなかったし、言ってくれなかったけれど。
 自分はただ言葉がほしかったのだ。
 自分が必要だと、無意味の存在でないと言う事を
 誰かに言ってもらいたかったのだと。
 でももし拒絶が返ってきたら・・・・と聞くことが怖くて。

 そしてそんな自分がとても無意味な存在に思えて、何もかもがどうでもよくなっていた。

-----疲れていた。


「・・・・?」

 薄い扉を叩く音にぼんやりと目を開けた。
 今、自分を訪れてくる客などいたのだろうかと、不思議に思ってドアを開けたら、ずぶぬれのステラが立っていて。
 アウルの姿を見るなり、満面の笑みを浮かべた。


「よかった・・・・具合でも悪いのかって思った・・・・」


 純真すぎるというか、お人よし過ぎる彼女の反応にアウルはあきれてはっ、と息を吐き出した。
 彼女を見て胸に去来した気持ちは喜びとか安堵とかではない。
 苛立ちだった。


「お前、すっぽかされたと思わなかったわけ?」


 片端を傾けた口からすべりで嘲笑にステラは首を傾けて、大きな目を瞬かせた。雨に濡れ、額にへばりついた金の髪から雫がたれていて、高価そうな洋服も色が変わってしまっていた。
 そんな彼女を憐れとも思わず、ただの馬鹿だとアウルはせせ笑った。


「・・・・でもアウル、大丈夫でよかった」


 だが当のステラはそんなアウルにさえ安堵の笑みを浮かべて、彼の顔を覗き込んできた。そして何の躊躇もなく手を伸ばしてアウルの額に触れようとした。


「・・・・っ」

 触れられそうになり、アウルは思わず身を引いた。


 どこまで馬鹿なのだろうかと呆れると同時にどす黒い欲望が生じてきて、手を伸ばしてステラの手首をつかむと、部屋の中へと引きずり込んだ。
 きつく握られた手首の痛みを訴えるステラはかえってアウルの嗜虐心を煽る。そのまま彼女を押し倒すとスカートをすりあげて太腿に触れると、びくりとステラの体が震えた。


「怖い?ばっかだな、男の部屋に転がり込んでさ」


 ステラの反応にますます愉悦を覚えて意地の悪い笑みが浮かんだ。


「世の中って言うもの、教えてやろーか」


 この世に悪い人はいないと信じきる、何も知らない、純真なステラを前に生じたどす黒い欲望。まだ足跡の無い、降り積もったばかりの新雪に跡を付けてやりたい衝動。
 アウルはステラをこのまま犯す気満々だった。
----- けれどステラは。


「何かあった?」


 表情はいつものように茫洋としていたけれど、とじっと目を見つめてきた。
 目をそらさずに見つめてきた。
 どんな鈍感でも今の状態が分かっているだろうに取り乱すこともなく。
 アウルが彼女の反応に戸惑って応えられずにいると、彼女はふわりと笑って。


「・・・・いいよ」


 -----アウルの頬をなでた。
 慈しみの篭った優しい愛撫。


「アウル・・・・好きだから」


 熱がすうっとひいてゆく。
 まるで温度を失った水銀の下降のようにあれだけ激しかった劣情がすとんと
消えた。


「・・・・あうる?」


 無言でステラから離れると、彼女が怪訝そうな顔を向けてくる。
 アウルは返事をする代わりにバスタオルを彼女に投げてやった。
 バサリと音を立てて、金の髪にかぶさる、青いタオル。
 それを受け取って彼女が濡れた頭拭いていると、不意にくしゅん、と小さなくしゃみをした。続けざまに華奢な身体が小さく震えた。

 自分を待って雨の中にいたせいだと気づくとアウルは罪悪感を覚え、決まり悪そうにクローゼットの方へと向かう。
 彼女に何とかあいそうなシャツとズボンを探し当て、振り返る。


「ほれ、服乾かしてやるから、着替えろ」

 ほうってやった着替えを受け取取ると、ステラはそれをまじまじと見つめ、アウルを見つめる。


「貸してやるから」
「うん」


 ステラはこくりとうなずくと、そのまま着ていた服を脱ぎ始めたのでアウルは慌てた。瞬く間に頬が熱くなる。


「あほ!!ここできがえんな!!脱衣所で着替えろ!!」
「?」


 アウルはボケっと座り込んだままのステラを引っ張り上げると彼女を脱衣所へと放り込んだ。音を立てて閉めると、扉にもたれかかり、大きく息をついた。頬が燃えるように熱い。


「ガキみてぇ・・・・」


 無防備なステラ。
 それ以上にそんな彼女に振り回される自分がひどく幼稚に見えた。
 女を知らないはずは無いのに、こうも慌てる自分が不思議で、それでいてひどく、滑稽だった。


「アウル、大きい」
「あたりめーだ」


 腕を広げてだぶだぶの服を見せるステラにジャストフィットだったらショックだぜ、とぼやきながらアウルは彼女のズボンをちょうど良い足の長さにまでめくり上げてやると、顔を上げた。
 ステラが頬を紅く染めて自分を見下ろしていているのに気づくと、気恥ずかしくなったアウルは顔をそらすと立ち上がった。


「僕んとこには乾燥機ないからな。近くのコインランドリーまで行くぞ」
「うんっ」


 まるで先ほどの事などなにも無かったかのように笑うステラに安堵を覚えたけれど、腹立たしさも覚えた。


-----彼女にとって自分はなんでもない存在なのだろうか、と。


「お前さ、なんでもないわけ?」
「う?」
「う、じゃねーよ。デートすっぽかされた上、乱暴されかけたんだぜ?どうしてそのまんまでいられんだよ」


 悪いのは自分なのに彼女に腹を立てるのは理不尽だと思った。
 なぜこうも彼女を試すまね等するのだろうか。
 ----試す。
 その言葉にアウル自身の思考が固まった。
 なぜ?なにを?どうしたいんだろうと、思考が反芻する。


「でもアウル、何もしなかった。着替えだって貸してくれたし・・・・優しく、してくれた」
「・・・・」
「アウル・・・・本当はね・・・すっごく優しい人なんだよ。アウルが気づいて、いないだけ」


 ステラの言葉にアウルの目が大きく見開かれた。
 今まで言われた事も無かった言葉。
 自分をこうまで肯定してくれる言葉はあっただろうか、と。


「ばーか・・・・何が・・・本当は・・・・だよ」
「馬鹿じゃないもん。だからアウル、好き。どんな事があっても、好き」


 弱くても乱暴でも、時には残酷さがあっても。
 どんなアウルでも、根本に流れるものは優しさ。そんなアウルがステラは好きだと言うのだ。

 少しずつ、張り詰めたものが氷解してゆく。
たとえようもない愛しさがこみ上げてきて、衝動のままステラを胸に引き寄せ、きつく抱きしめた。


「馬鹿」


 呪文のように繰り返す。
 だけど言葉に篭る感情は今までのと違うもの。


「ありがとな」


・・・・・声が、震えた。







 雨が降っている。
 薄暗さの中でも輝きを失わない、マリンブルーは外に注がれたまま。
 やがてアウルは視線を外すと今度は部屋の中を見渡した。

 2年間、ここにはたくさんの思い出が詰まっている。
 ステラとの思い出。
 友人たちとの思い出。
 ・・・・そして実る事の無かった、最初の恋。


「今の僕は頑張れるから・・・・頑張る」


 誰ともなくそうつぶやくと、アウルは近くのシャツを手にした。
























「つらくはなかったのかよ」

 話が終わってしばらく黙りこくっていたシンがポツリとつぶやく。
 視線の先にはコーヒーの入った紙コップが湯気を立てている。

「ん・・・・でもあたし、ステラもアウルも大好きだから。二人が一緒にいて笑うところが好きだったから」


 ココアを一口のむとシンのほうを顧みてルナマリアは笑った。

「そのためにもどんな事でもしようって」


 どこまでも朗らかなルナマリア。
 激情を露にするのはアウルとステラの時だけで他は笑って流している。
 この少女は自分の事はどうなんだろうか、と半分呆れ、半分心配になった。
 口から漏れたのはそんな複雑な感情がいりまじった言葉。


「おひとよし」
「・・・・その言葉をそっくりそのまま返してあげる」


 相も変わらずルナマリアは笑う。
 自分の言いたい事は半分も届いていないんじゃないかとシンが思うくらい、彼女は変化を見せない。

 ただ、笑う。
 
 だが、彼女は不意にその笑顔を引き締めると、優しい眼差しでシンを見つめてきた。母親のような、穏やかでやさしい目。

「あんた・・・・本当は迷っているんでしょ。割り切っていないんでしょ」
「なんで・・・・」


 自分の心のうちを見透かされ、シンは口ごもる。
 うつむくと、そりゃあね、とルナマリアが小さくため息をつくのは聞こえた。


「だってあんた、ステラがすごく好きなのが分かるんだもの」


 好きだからこそ、笑っていて欲しい。
 自分のものにしても笑ってくれなかったら何の意味も無くて。
 それでもやっぱり手放したくない。


「ジレンマよね・・・・」


 困ったような笑みを浮かべてルナマリアはココアに口を付けた。
 釣られてシンもコーヒーを口にした。




 コーヒー苦味と砂糖の甘さが緩やかに口の中に広がっていった。




























あとがき


 長くなりました。
今回はルナマリアが中心となりました。
 彼女がアウルとステラを大事に思う理由が少しだけ浮き彫りにできたかなぁって思ったんですが、どうでしょう?
 彼女も複雑なんです。気持ち的に言えばシンに近いのかもしれません。
次で完結です。