薄暗い空気に絡み落ちる霧雨は全ての音を閉じ込めるかのように降り注いでいる。おもてと同じように薄暗く、静まり返った部屋の中でステラは締め切られた窓からその光景をぼんやりと眺めていた。
 手元にはアウルから送られた小さなピンクの貝殻を形度ったペンダントがステラの白い手の上で淡い光を放っている。

 
 アウルと初めて結ばれた思い出のクリスマス。
 つないだ手のぬくもり。その喜び。
 自分に触れた熱っぽい唇の感触。
 暖かく包み込んでくれた大きな腕。
 自分の名を呼ぶアウルの声。
 自分を映してくれた海色の瞳。
 指の間を滑り落ちてゆく彼の柔らかな空色の髪。
 すぐ傍で感じていた彼の息遣い。
 

 共に在った日を一つ一つ、ステラは思い出す。


 小さく、消え入りそうな歌声が口元からぽつぽつりと生まれる。
 儚い旋律は自分への慰めか。嘆きか。


 否。


 ただ一人を想い、少女は歌う。
 彼との再会を信じて。
 彼と交わした約束を胸に抱いて。






ステラは、歌う。





















 
  愛おしい君に
       
     笑顔を
























 永遠に降り続くかと思われた雨は次第にその足を弱め、数日振りにようやく太陽がその姿を見せた。

 窓を開けると澄んだ空気が部屋に流れこんで来る。
 光の粒子を含んだ明るい夏の空気。
 地面の水溜りにセレスティー・ブルーの空が鮮やかに映り込んでいた。




 からんからん。


「店長すいません、アウルです!!」


 電話でバイト先のマスターに数日間にわたる無断欠勤を詫びたあと、アウルは一目散にバイト先へと飛び込んでいった。
 そんな自分を待ち受けていたのはマスターの安堵した笑顔と怒りと安堵の混じった複雑の表情をしたスティング。
 

 そして。


「こぉのバカボンがぁ〜〜〜っ!!!」


 聞きなれた怒鳴り声と共に飛んできたのは右フック。
 店の常連客でステラの親友のルナマリアのものだった。
 頭の上に何時もぴょこんと立っている一本の毛は怒りで逆立っていて、顔はまるで般若のような形相。
 そして拳のスピードと怒りに満ちたその声からも分かるように、相当な威力が篭っているだろうと思われる彼女のフックをアウルは慌ててバックステップで交わす。


「甘いっ!!!」


 彼女のリーチの範囲外に出たと思ったつかの間、反対側から飛んできた学生鞄の強烈なアッパーがアウルのあごを捉えた。

 見事な連続攻撃。

 アウルはルナマリアの攻撃をまともに食らい、後方に吹っ飛ぶと床に尻餅をついた。食らったアッパーであごがジンジンと鈍い痛みを訴えている。


「腕は2本あんのよ!油断は大敵、美容の敵!!」
「いや訳わかんないし」
「油断すると美容もすぐに損なわれるってことよ!」


 アウルの突込みをものとせず、ルナマリアは握りこぶしを振り上げて自分の理論を力説する。なんで美容が関係あるのかと思ってもこれ以上の突っ込みは無駄だと悟っているアウルは諦めたように口を閉ざすと痛むあごをさすりながら立ち上がった。


「久しぶりに会うなりいきなり何なんだよ」


 早速アウルがルナマリアの乱暴すぎる挨拶に不平を唱えると、彼女の目が見る間に釣りあがる。再び般若のような形相になると、アウルの頬に両手を伸ばして思いっきり左右へと引っ張った。
 両頬を引きちぎらんばかりの手加減のなさにアウルは我を忘れて悲鳴を上げた。


「ひででで〜〜〜やめれ〜〜〜」
「何日も連絡もよこさず、引きこもってたくせに〜〜〜〜〜っ!!!この親不孝な口を叩く悪い口はこの口かぁ、この口かぁ〜〜〜〜っ?なくなってしまえ〜〜〜〜っ!!」

 お前、いつ僕の親になったんだよ、と怒鳴りつけてやりたくても自分の口はルマナリアにつかまったまま。
 いい加減泣きたくなってきた頃にようやくスティングの静止が入った。


「そこで勘弁してやれ。ようやく踏ん切りがついて戻ってきたんだから」
「踏ん切りって何よ、それ?あんたステラを諦めんの?」


 アウルを解放したものの、スティングの言葉に怒りを覚えたルナマリアが詰め寄る。彼女の様子からしてステラと自分が別れかれたは既知の事実のようだった。彼女はステラの親友なのだ、当然かもしれない。


「あ〜〜〜やっぱりあんたのとこに乗り込んでいけばよかった。オクレ兄さんの言葉信じてあんたが戻ってくるのを待つんじゃなかった!」


 誰がオクレだ、と顔をしかめるスティングを無視し、ルナマリアはひたすら自分が馬鹿だったと嘆く。部屋から引きずリ出してでも説得するべきだったと。
 傍から見てとんでもない言動ではあったけれど、彼女は本気で心配してくれていたようで。それがアウルは嬉しかった。
 思わず顎の痛みを忘れ、笑いかけてその痛みに顔をしかめる。
 そんなアウルを反抗と見て取ったルナマリアの怒りの篭った眼差しに攻撃の第二派が来てはかなわんと、アウルは痛みをこらえて無理やり口を開いた。


「誰も諦めるっていってないじゃん」


 余裕を見せようと努力してみたものの、それもうまくそう見えているか分からない。顎の痛みからではない。不安からだった。ステラに再び逢えるという保証も無く、まだどうするかもきまっていないのだから。
だがアウルはあえて笑う。ずきりと顎が痛んだ。


「ステラと連絡とる方法探す。このままで終わるつもりはないっていってんの」


 ルナマリアの荒れ狂った眼差しが次第に穏やかさを取り戻してゆく。
 怒りに燃える青から深い紺色、安堵の色へと。


「だから言っただろ?アウルのヤツ踏ん切りついたって」
「ちょっと待って、知らなかったのはあたしだけ?!このあたしを仲間はずれたぁ、どういう魂胆よ、この野郎〜〜〜!」

 だが、スティングの一言でルナマリアの眉が再び釣りあがった。関節のさびた中古ロボットのようにぎこちなく首を動かしてアウルの方へと向き直る。またかよっ、とアウルが心の中で悲鳴をあげた。


「結局怒るんじゃねーか!!」


 またもやドタバタと取っ組み合いを始めるアウルとルナマリアにスティングとマスターは他所でやってくれまいかとため息をついた。


「まぁいいわ。根性見せるのだったらこのルナマリア様が取って置きの情報を教えて進ぜよう」


 しばらく暴れた後、アウルにおごらせたケーキセットを前にルナマリアがそう嘯くと、アウルは彼女の向かい側で頬杖をついたまま彼女に先を促す。彼の傍らにはマスターのおごりであるコーヒーがほぼ空になって置かれていた。
 ルナマリアはケーキをもう一口飲み込むと、答える代わりに行儀悪くフォークで店のメニューを指し示してにやりと笑った。


「情報量としてフルーツパフェを追加ね」


 上機嫌に語尾に尻上がりのアクセントを付けてそうの給う少女にアウルは口元を引きつらせた。ずきんずきんと顎がまたもや痛みを訴えていたが、お構いなしに声を荒げてしまう。


「おいっ!!またおごらせる気かよ?!」
「ステラのためよぉ?」


 ステラのため、といわれてしまって言葉に詰まったアウルは諦めたように肩を落として降参の意を示す。彼の無言の了承を得ると、ルナマリアは満面の笑みを浮かべてマスターに追加注文をした。

 鬼、たかり魔と言うアウルの呟きを無視して。
 
 やがて運ばれてきたパフェを前に彼女は肝心の話題へと移った。


「近々、ステラね、あたしとステラの婚約者と遊園地に行くことになったの。あの子ずっとふさぎこんでいたから、彼女を元気付けようという名目でね」


 セッティングをしたのはもち、あたしと機嫌よく付け加え、ルナマリアは淀みなく続ける。


「まぁボディガードたちも当然、うようよ付いてきてうっとおしい事この上ないけれど、園内まではいって来ないらしいから、それがチャンスといえばチャンスよね」


 そこでいったん言葉を切り、アウルを見やった。アウルはしきりに何かを考えているようで彼はテーブルの一点を睨みつけている。
 話をちゃんと聞いているのかと疑いながらもルナマリアはさらに続けた。


「日程とどの遊園地かまだはっきりと決まっていないんだけど。連休前にはギリギリ分かるはず。できればもっと早く聞きだせるよう努力するけれど、ステラのお兄さんがなかなか口割らないのよ。対策立てにくくなるわ」
「5月3日。ファンタジーランド」


 アウルの発した言葉にルナマリアはぽかんと彼を見やった。
 その濃いブルーには驚きの色がありありと浮かんでいた。


「なんで・・・・?」
「しらねーやつからメールが来たんだよ」


 驚くルナマリアの前にアウルは硬い表情で自分の携帯を取り出して見せた。

かなり前の型の、飾り気のない、紺色のシンプルな携帯。あまりにも時代遅れすぎる型に周囲が機種換えを薦めていたが、其のたびにアウルは通話とメールが出来ればそれで良いのだとつっぱねている。
 メールの欄を開くと登録されていないアドレスからのメールが一通あった。


『5月3日ファンタジーランド』


 送り主の名前も無く、たったそれだけのメッセージだった。



「誰・・・・・これ?」


 内容を凝視したあと、ルナマリアがかすれた声でつぶやいてアウルを見つめると、アウルも難しい顔をしたまま彼女を見返した。


「僕が知るかよ。いたずらメールかと思ったけどさ・・・・。それにしちゃあ手が込んでるなって・・・・」


 シンプルすぎる内容。
 名乗らない送り主。
 だけど打ち込まれていた内容は明らかに意味を持っていて、それが余計不思議だった。


「どうするの?」
「行くよ。せっかくのチャンスだ。何かあったらその時はその時」


 アウルの言葉にルナマリアの目が興奮に輝いた。
 口元に不敵な笑みが浮かぶ。


「そうこなっくちゃ!!」
「悪いけど、お前にも協力頼める?」


 俄然活気付いた友人を前にアウルも負けられないと笑う。
 顎の痛みはもう気にならなくなっていた。


「もち!パフェの分、働いてあげるわよ」
「・・・・その分も入っていたのかよ」
「安いでしょ?」
「ぷっ。お前にしちゃあね」
「うふふふ」


 小首を傾けて笑うルナマリアにアウルは肩をすくめた。
 彼の笑みも次第に不敵なものへと変わってゆく。

 互いの手がテーブル越しに組み合わさった。
 さらにそのあと、喫茶店のマスターとスティングも巻き込み、5月3日に向けて彼らの作戦会議が始まるのだった。































 そして5月3日、当日。
 その日は朝から快晴で昼ごろから夏の暑さを記録するというニュースが流れていた。


 シン・アスカは朝からそわそわしていた。
 自分が送ったメールが相手に届いたかどうか不安だったからだ。
 届いて欲しい。
 届いても見ないでいて欲しい。
 来てほしい。
 やっぱり来ないでほしい。
 そんな相反する気持ちの狭間で彼は揺れていた。

 今回が最初で最後のチャンスだ。

 これを逃せばアウルという少年が式の前にステラと接触できる機会は無くなる。 レイたちは焦りを見せ初めていて、正式な結婚を前に内縁を、という形を選択したのだ。
 

 身内の間の簡素な式は6月末。
 披露宴および入籍はシンの誕生日のあとの9月半ばと定められた。


 ステラは、というと涙が枯れてしまったのか、監視付きではあるが、普段どおりきちんと通学していた。シンに対しても気丈に振舞って見せるのが余計彼の胸を締め付けていた。
 なぜならば彼は。


 時折、彼女が一人沈んでいるところを見ているから。
 密かに零している涙のあとに気づいているから。


 そんなステラを見るに忍びないとは思ったけれど、同時にそんな彼女を見るたびに哀しくなる。


 自分だって彼女をずっと見てきたのだ。
 それもアウルという少年より長く。
 それなのに何故彼女が恋したのは自分では無く、彼だったのか。
 

シンはそれがとても哀しかった。


 それでも。
 そう思っていても。
 なぜ、敵とも言える少年に塩を送るような真似を自分はしたのか。
 メッセージが届いて欲しいと願う自分がいるのか。
 アウルという少年に自分は何を期待しているのだろうかと、シンは自分自身不思議でならなかった。

 ステラを誰にも渡したくない。
 誰よりもそう強く思っているはずなのに、何故。
























「今日は入場制限付きのはずだけど、やっぱ人は多いわよね〜」


 たどり着いた遊園地の駐車場はほぼ満車でゲートは朝早くから人でごった返していた。その人出の多さにルナマリアがゲート前で呆れたようにぼやきをもらす。

 彼女はカジュアルなワイシャツにホットパンツ、頭の上にはキャップという活動的な服装でまとめていて、動きやすいように配慮をしていた。

 今日の主役であるステラは蒼と白のホルスターネックのドレス姿だった。ベールのような袖にふんわりとした白い裾、首もとにはピンクのワンポイントペンダントが光っていて、彼女によく似合っている。
 
 彼女らをエスコートする役目のシンはパーカーにシャツ、ジーンズというごくシンプルなスタイルだった。

 レイは多忙のため、今回は同行しなかったのだが、彼は別れ間際、ルナマリアにシンとステラを出来るだけ二人にするよう、うるさく釘を刺していた。

 当日レイがついて来れない代わりに余計なお付が数名代わりにきたが、レイ本人が来るよりはるかにましだと思えた。

 むしろかえって好都合だった。




「ほらほらいきましょー」


 出来るだけ朗らかに愛想よく。
 世話好きの顔を前面に押し出して、ルナマリアはシンとステラの腕を引っ張って遊園地の中へと導いていった。
 そしてちらりと腕時計に目をやるとルナマリアは綿密に立てた計画のもと、行動を開始した。


「ジェットコースター、いこいこ!!」
「え〜〜〜〜」
「・・・・・?」


 ジェットコースターという過激な乗り物をはじめとする、ロマンティックなものとは程遠いアトラクションを選び、ルナマリアはシンたちを引っ張りまわして、後ろについてくるお目付けたちを翻弄した。

 だがその一方、ステラは数日振りの笑顔をみせてはしゃいでいた。
 なびかせた金の髪が陽光を受けてキラキラと光り、桜色の唇から笑い声がもれる。その姿に疲れを見せていたシンもまた気を奮い立たせて、彼女たちに付き合うのだった。
 しかし付き合うと言ってもやはり体力と気力には限度があって、やがてすっかり疲弊したシンは休憩場で座り込んでしまった。ステラが済まなそうな顔でそんな彼を気遣い、飲み物を差し出していた。

 ルナマリアは再び時計を見やると周囲にすばやく視線を走らせた。うまい具合に人ごみが多く、お目付け役の使用人たちは足を取られている。

 絶好のチャンスだった。

 彼女はステラ達の元へと戻ると、そろそろ食事へ行こうと声をかけた。微笑んでうなずくステラの傍らでシンが安堵の息を漏らす。


「はいはーい、こっち。目をつけていたお店があるの。遊園地のキャラクターがいっぱいいるお店」
「わぁ・・・・」


 ルナマリアの言葉にステラのすみれ色が輝く。
 彼女はそういったキャラクターたちが大好きで部屋はそのヌイグルミで埋まっているほどだった。
 キグルミのキャラクターたちが大勢ひしめきあっているエリアへと進んでゆく少女たちをシンはやや辟易とした表情で追った。


「ファンタジーランドへようこそ〜〜」


 歌って踊るキグルミのキャラクターたちが口々に彼らを迎える。
 猫や犬の姿をしたもの、ペンギンの姿をしたものなど、キグルミたちは実に様々で、ステラは特に蒼い猫が気に入ったらしく、嬉しそうに追い回していた。


「アウルみたい・・・・」


 そんな彼女の言葉にシンの表情がわずかに翳ったのをルナマリアは見逃さなかった。お人よしともいえるシンをだましている後ろめたさを押し隠し、ルナマリアは彼の腕を取ると笑って見せた。


「ねー、どこの席がいーかな」
「ちょ・・・・っ!ひっぱんなよ!あ、ステラ!」


 シンの狼狽した声に彼の視線をたどるとステラはいつの間にかキグルミたちに囲まれていて、驚きに目をパチパチさせていた。
 次第に奥の方へと流されてゆく、ステラ。
 その光景にルナマリアの口元にかすかな笑みが浮かんだ。
 これは手はずどおりだったのだ。
 あとの邪魔者はお目付け役の者達と------この少年だった。


「悪いわね」


 心の中でそうつぶやくとルナマリアはステラに気づかないフリをしてわざと反対方向へと彼を引きずっていた。それも人ごみの方へと。


「おいっ、方向が違うよ!」


 シンの叫びもむなしく、二人はたちまち人ごみに飲まれ、身動きが取れなくなる。視界の隅でお目付け役の使用人たちがあたふたしていたのが見て取れて、なんとまあ簡単すぎるくらいだわぁとルナマリアはほくそ笑んだ。


「シン・・・ルナ・・・・」


 ステラのほうはキグルミたちや人ごみの中で一人途方にくれていて。
 そこへ先ほどの蒼い猫が彼女の元へと近づいてきて、いきなり彼女を抱きかかえた。驚きに悲鳴を上げた彼女だが、パフォーマンスか何かと思った周囲は気にも留めずに笑ってさえいる。


「やだ・・・シン!!ルナ!!」


 泣きそうになりながら大声で許婚と親友の名前を呼んだが、彼らも人ごみに紛れ込んでしまったらしくこちらへとこれないようで。
 暴れるステラにかまわず、蒼い猫はプレイグラウンドの方へと彼女を運んでゆく。恐怖に駆られたステラは必死に逃れようと手足をばたばたさせて必死に抵抗した。


「やだーーー!!やだーーー!!兄様!!父様!!」


そして一段と高い声を上げて最後の名を呼んだ。


「アウルーーーー!!」
「はいはいーー」
「ふぇ?」


 くぐもっているが、聞き覚えのある声にステラはぴたりと暴れるのをやめ、自分を抱きかかえるキグルミの猫を凝視した。
 ステラを抱きかかえた蒼い猫は大人しくなったステラを人ごみから連れ出すと、彼女を注意深く降ろした。そして食い入るように自分を見つめてくるステラに頭を掻いて見せると、猫は頭の被り物をはずした。


 中から現れたのはステラが何日も焦がれた空と海の色。


「アウル!!」


 喜びと驚きにすみれ色をキラキラさせ、ステラは蒼の持ち主の名を叫ぶと体当たりするような勢いでに彼に抱きついた。
 アウルは慌てて体制を整えながら彼女を抱きとめると、彼女の髪をなでつけた。だが、キグルミのままの手ではどうにも彼女に触れるのが難しい上、じかに触れられないのがもどかしい。
 そう思っていても生身の一部でもを出したければ、全てを脱がなければならない仕組みになっている。残念に思いながらも諦めてステラに向き直った。直には触れられないが、彼女に逢えたのだ。それだけで十分すぎるくらいだった。



「久しぶり」


 こんな時にこんな台詞はないだろうと思ったけれど、ひたすら彼女に会う事ばかり考えていたからアウルは他にかける言葉が分からなかった。


「アウル・・・・アウル」


 ステラのすみれ色が見る見る涙で溢れかえってゆく。
 アウルを包んでいる大きなヌイグルミの本体に目一杯腕を回し、きつく抱きつきながら彼女はこの間待ち合わせにこれなかったことを、そして兄の事をしきりに謝ってきた。


「兄様は、本当は・・・・とても優しい・・・・の。アウル、嫌いにならないで」


 アウルはそんな彼女に困ったように笑いかけると、彼女の目を覗き込んでこう言った。


「分かってる。お前の兄貴は兄貴なりにお前に幸せになってもらいたいと思っていたんだろ。お前もお前の兄貴も悪くねぇーよ」


 数日前の記憶が反芻するたびに胸に痛みが走る。
 これから自分がしようとしている事はレイやステラの家族の想いを踏みにじることになると分かっていてもアウルはもうあとに引くつもりはなかった。
 引く事も出来なかった。自分のためにも。
 彼女に大事な事を伝えるためにここまで来たのだから。
 少し身をかがめてステラと目線を合わせると、手を伸ばして彼女の頬に触れた。自分の一挙動一挙動をみのがすまいとひたむきなを眼差しを向けてくるステラ。

 
 アウルは一呼吸をおいて自分の決心を固めると、彼女を見つめ返した。


「ステラ・・・・お前、僕についてきてくれる?」


 自分の頬に触れるアウルの手をしっかりと握っていたステラは彼の言葉にすみれ色の目をゆっくりと瞬かせた。
 自分のしようとしている事は彼女を家族と引き離してしまうかもしれない。
 それでも伝えたいとアウルは続ける。


「お前の家族とはなれる事になっても僕と生きてくれる?」


 いつぞやのプロポーズの言葉を今度は自分から。
 だけど比べ物にならないくらいの真剣さでアウルはその言葉を紡いだ。
 後ろめたさと不安と恐れとそして希望をこめて。
 ステラは彼の言葉をかみ締めるように息さえ凝らして聞き入る。
 彼の伝えようとしている全てを受け取ろうとしていうかのように。
 そしてふわりと笑った。


「ステラ・・・・アウルの行くところ、どこだってついていく」


 -----前言ったよ、忘れたの、とわずかに頬を膨らませてステラは続けた。


「アウルといられるのなら・・・・どこだって天国だよ・・・・?」
「・・・・ステラ」


 不安でいっぱいだった心がゆっくりと希望に満ちてゆく。
 頬を染め、幸福に満ち満ちたステラの顔に。
 彼女の言葉に胸がいっぱいになってしまって。
 それ以上何も言えず、アウルはただ唇を震わせた。


「アウル、大好き。アイシテル」


 使い慣れない言葉で、たどたとしかったけれど、ステラはアウルに精一杯の愛の言葉を告げる。


 全ての愛情と喜びをこめて。


 そしてアウルも。
 自分には照れくさ過ぎて、非現実的すぎてなかなか言えないでいる言葉に真摯な気持ちをこめて彼女に応えた。


「僕も・・・・アイシテイルよ。絶対に迎えに行くから・・・・待っていてくれよな」
「うん」


 周りの時が止まる。
 周囲の喧騒も人の気配も消えて。
 今はただ二人だけになる。
 互いに引き寄せられるように二人は額を触れ合わせ、ゆっくりと唇を重ねた。

 今までの二人の空白を埋めるように彼らの口付けは深くなってゆく。
 互いの吐息を奪いあうかのように深く、激しく。































「ルナマリア、あんたいい加減にしろよ!!ステラを探すのを邪魔するのなら一人で待ってろよ!!」


 一方、シンは自分にまとわりついてはなれないルナマリアに我慢しきれ無くなり、彼女の腕を振りほどくとずんずんとステラの消えた方向へと向かった。


「ちょっとレディを一人にする気っ?!」


 背後に投げかけられたルナマリアの抗議に少しだけ立ち止まると、彼は人ごみにまぎれている使用人たちを指差した。彼の示した方向には確かに人の波にもまれながらあたふたしている見慣れた顔が数人垣間見えていた。


「向こうに使用人たちがいるだろっ。俺はステラを探す!!」


 そういい捨てると、シンはさっさとステラを探しにきびすを返した。
 先ほどからしつこく邪魔をされた憤りも相まってその足取りは速い。


「待ちなさいよ!!!」


 やや焦りを含んだルナマリアの声に加え、ばたばたと自分の後を追う気配にかまわずシンは足早にステラの消えたキグルミたちがひしめき合うプレイグランドの方へと向かった。


「ステラ〜っ」


 行き交う人をつかまえては金の髪の少女の行方を聞いて回ったが、彼女の行方を知っているものはなかなか見つからず。
 ようやくつかんだ情報は蒼い猫に抱えられた金髪の少女がプレイグラウンドの方へと連れて行かれたという情報だった。


 ------なんでまた遊園地のキャラクターなんかにつかまったんだ?


 そう疑問に思いはしたものの、早くステラを見つけ出そうと、シンは走り出した。流れる人ごみを掻き分け、時にはぶつかりながらシンは一目散にプレイグランドの方を目指す。無事であって欲しいという願いを胸に。


 プレイグラウンドにたどり着くと、シンはたくさんの入場者達の中から必死にステラの姿を探した。

 そしてその隅に。
 
 木陰に隠れるような形で佇むステラの姿を見つけた。
 ほっと安堵し、喜び勇んで彼女の元へと駆け寄ろうとした時、彼は彼女が一人でないことに気づいてその場に立ち止まった。


 ステラの傍にはキグルミ姿の少年がいて、穏やかな表情でステラと何かを話していた。そして少年と言葉を交わしているステラは、今ままでシンが見た事のなかった顔で少年を見つめていた。
 彼女の頬は紅く染まり、すみれ色の眼差しは恋慕の情を一心に向けている。一人の少女ではなく、一人の『女』の顔をしたステラにシンは息を呑んだ。


 彼女は俺の幼馴染だったステラなのだろうか?
 あの幼い、子供のようなステラなのだろうか・・・・と。


 そんな考えがシンの頭をグルグルと駆け巡った。
 シンに気づかない二人はやがて言葉が尽きたのか、身を寄せ合うと、唇を重ねた。離れるのが名残惜しいというかのように、彼らは何度も角度を変え、長いキスをかわしていた。


「アイツが・・・・ステラの・・・・」


 空色の髪と海色の目。自分とは対極の色を持つ少年がステラの想い人なのだ。そしてステラが護ろうとした恋の相手。
 シンは小さく息を吐き出すと、彼らが気づく前にゆっくりとその場を離れた。


 胸に生じた鈍い痛みは次第に鋭さを増してゆく。
 自分が一部噛んでいたとはいえ、実際に目の当たりにしてみると思っていた以上にそのショックは大きかった。


 ステラに笑顔が戻ったら、と思って送った情報。
 でもその結果、自分に返って来たダメージは想像をはるかに超えていて今更ながら自分の行動を後悔し始めていた。

 彼に来て欲しくなかった。
 自分達をそっとしておいて欲しかった。

 すれ違う子供の声が耳元を通り過ぎてゆく。
 その声はまだ幼かった自分とステラを思い起こさせた。



 あの頃にはもう戻れない。



 戻れないのだと悟ると、知らず知らずのうちに涙が浮かんでいた。


「見つけた!!」


 ふと近くで聞こえた甲高い声に顔を上げると、怒りを露にしたルナマリアが仁王立ちの姿で自分を睨みつけていた。


「あんた、ホント!!礼儀を知らないお坊ちゃんよね・・・ってどうしたのよ?」


 最大級の皮肉をこめてそういった後、ルナマリアはシンの表情に気づいたようで、紺色の目をパチパチさせて彼の顔を覗き込んできた。


「なんでもない」


 シンは自分の今の顔を見られなくて顔をそらした。
 こんな顔は死んでも見られたくない。自分のプライドだった。
 ルナマリアはそんな彼から侵してはならない領域というものを感じ取ったのか、それ以上何も追求しなかった。そして何事もなかったようにシンの元へと歩み寄ると、彼の腕に自分のをまわした。


「さ、ステラを探しに行きましょうか」


 先ほどまであれだけうるさいくらいい邪魔をしてきたのに打って変わったその素直さにシンはわずかに眉を顰めた。

 まるで誰かと示し合わせたかのようだ・・・・。

 彼はこの遊園地デートたるものの発案者が彼女であった事を思い出した。


「まさか・・・・」
「なによ?」


 自分の腕にぶら下がるルナマリアを見やると、彼女はきょとんとした顔で彼を見返してきた。


「なんでもない」


 視線をそらすと、シンは再び彼女の方へと見やった。
 彼女はなんでもなかったように鼻歌を歌い、遊園地を見回しながら彼を引っ張って歩いている。


 彼女が一枚噛んでいるとしたら・・・・?


 そうだとしたら全てに納得行くような気がした。
 アウルとステラが監視の目をかいくぐる事が出来た用意の周到さ、ルナマリアの執拗な干渉。何よりも彼女はステラの親友なのだ。
 彼女はステラの恋人の事など知らないと嘯いていたが、それは多分嘘だ。彼女の協力もあったからこそ、今まで二人の事が隠し通せたのだと、シンはなんとなく理解できた。
 そうだとしたら自分の行動は道化・・・・ではないかと苦い思いが広がる。
 

 その時ルナマリアがあ、と声を上げた。
 顔を上げると、ステラがこちらに向かってかけてくるのが分かった。


「シン!!ルナ!!」
「もう、心配したのよ?!」


 白々しい。
 裏切られたような気がしてシンは心の中でそう毒づくと、ステラを見送るように遠くで佇む蒼い猫の姿を敵意のこもった目で睨みつけた。

 すると、キグルミと目があったような気がした。
 はっきりとは分からなかったが、視線がかち合ったような感覚。
 キグルミはこちらを見つめていたが、ゆっくりときびすを返すとやがて人ごみの中へと消えていった。
 ステラはその姿が完全に見えなくなるまでその場を動こうとせず、じっと見つめ続けていた。






























 日が傾く頃、シンたちを乗せた車は帰路へと向かっていた。
 シンは助手席から後部座席へと目をやると、すっかりくたびれ果てたルナマリアがステラの肩に頭を預けて静かに寝入っていた。彼女の穏やかな呼吸がステラの金の髪を揺らしている。
 
 そしてステラは。

 今朝の沈んだすみれ色とは打って変わった、活き活きとした輝きを宿した瞳を流れ行く外へと向けていた。
 
 口元には幸せに満ちた微笑み。

 あの日からずっと翳っていた彼女の顔に自分が愛してやまない笑顔が戻ってきている。
 シンはそれを喜ぶと同時にいいも知れぬ嫉妬と寂しさがこみ上げてくるのを感じた。
 数日前まではこんな感情ではなかったのに。
 やっぱりステラを手放したくないと言う気持ちが強かった事を彼は改めて実感した。

 誰にも渡したくない。でもステラには幸せであったもらいたい。
 ぐちゃぐちゃになってゆく心のうちにシンは深いため息をつくと、外の風景へと目をやるのだった。



























 パチン。
 アウルは誰もいない部屋の電灯のスイッチを入れると、疲れきった体を6畳間のたたみの上に投げ出した。


「ちっくしょう、キラの野郎、人を散々こき使ってくれちゃって」
 

 アウルは臨時の雇い主だった青年にそう毒づくとうつぶせになった。
 体中の疲れに畳の冷たさが心地よく感じられる。
 この日、夏のような暑さを記録し、キグルミ姿になっていたアウルは灼熱地 獄というものを味わった。
 それはステラに会うまではまだ我慢できた。
 問題はそのあとだった。


『えー。僕は別に善意で君に手を貸したり、キグルミを貸し出したわけじゃないよ?このところ人手不足で困っていたんだ。きっちりフルタイムで働いてもらわなくっちゃ』

 遊園地のマネージャー、キラ・ヤマトはそう言ってにっこりと笑うと、自分に無情にもキグルミ着用の続行を言い渡してきたのだ。
 アウルがキグルミスタッフとして遊園地にもぐりこめたのも、キグルミ仲間達に応援も頼めたのも元々はキラの知り合いであるスティングがアウルのために無理いって頼み込んだからだった。
 無理いってもぐりこませてもらった恩義とスティングの顔を立てるため、アウルは仕方なく仕事を続行したのだが・・・・・。

 子供にまとわりつかれて気疲れはする。
 炎天下の中のキグルミ姿はまさにインスタントサウナで。
 ただでさえ動きにくいのにあちらこちらと歩かされ、アウルはたった一日で地獄を見たような気がした。


『お疲れサマー。君、評判よかったよ。ねぇ、うちで正式に働かない?報酬はずむよ?』


 キラは一日の終わりにこやかにそう誘ってきたものの、アウルはきっぱりと断った。確かに報酬はなかなかのもので、正式採用となった場合はさらに増額だという話も魅力ではあったが、正直二度とごめんだった。
 アウルはいずれ、ステラを連れて叔父達の元へと帰るつもりでもあったのだから。

 ステラは式が急遽6月に決まったと言っていた。
 時間はほとんど残されていない。

 ステラに寄りそっていたあの黒髪の少年が彼女の許婚なのだろう。彼とは帰り間際に視線がかち合ったような気がした。敵意に満ちた紅い目。自分とは対極の紅の少年。


 だが、負けられなかった。
 ステラは渡したくない。


 アウルは一つ息をつくと、スティングに電話をしようと携帯を手に取った。
 その時ふと、この間のメールの事が思い出されて、もう一度メールの欄を開いた。

 あれからこの名も無き送信者からメールは来ていない。
 今回ステラに逢えたのも、ルナマリアの手助けもあったが、大半はメールの送り主のお陰だったと言ってもよかった。
 このメールのおかげでしっかりとした手はずが整えられたのだ。
 礼の返信をしようとしても相手はアドレスを変えてしまったあとだったのか、送ったメールはあて先不明で返ってきた。


「一体誰なんだろうな、あんた」


 そして一体何のために送ってくれたのか。


「礼も言わせてくれないのかよ・・・・?」


 送信元不明のメールを見やりながら、アウルは誰とも無くつぶやくのだった。





















あとがき


次回完結です。もう少しお付き合いください。